紅葉の家事
秋晴れの週末。窓の外では、燃えるような紅葉が庭を彩っていた。佐和子は、夫・健一の紅葉狩りの支度を、いつものように静かに進めていた。朝食の準備、健一が仕事中に食べる弁当の詰め込み、そして、出かける健一のために用意する着替え。一つ一つ、完璧に。健一は、佐和子の献身を当然のことのように受け取り、感謝の言葉すら口にしない。それが、佐和子にとっての日常だった。
紅葉狩りの道中、車窓を流れる鮮やかな景色を眺めながら、健一がふと口を開いた。「君がいるから、俺は仕事に集中できる。君の存在は、俺にとって不可欠だ」。その言葉は、佐和子の胸に一瞬、冷たい風を送り込んだ。自分の「存在」とは、夫の「家事」によってのみ、その価値が定義されているのではないか。そんな漠然とした不安が、鮮やかな紅葉の木々を、まるで夫の言葉を彩るかのように目に映し出した。しかし、その美しさの中に、佐和子は自身の輪郭の曖昧さを感じずにはいられなかった。
紅葉狩りから帰宅すると、健一は「疲れた」とすぐに寝室へ向かった。佐和子は、一人、静かに「家事」を続けた。夕食の準備、洗濯物の片付け、そして部屋の掃除。健一が愛用するシャツの襟の黄ばみを、洗剤をつけながら落とした。彼が好む料理のために、何時間もキッチンに立ち続けた日々の記憶が蘇る。もし、この「家事」がなくなったら、健一の「存在」は、一体どうなってしまうのだろうか。佐和子の指先が、まるで砂を掴むかのように、空虚さを感じていた。
夜、健一が眠りから覚め、佐和子にぶっきらぼうに尋ねた。「腹減った。なんか食いもんない?」佐和子は、準備していた夕食を、無言で彼の前に置いた。健一はそれを食べ終えると、再び眠りに落ちていった。佐和子は、健一の穏やかな寝顔を見つめながら、長年「家事」をしてきた自分の手のひらを見た。そこには、夫のために費やした無数の「家事」の痕跡が、まるで時を刻む傷跡のように、静かに積もっているように見えた。
翌朝、佐和子は健一の弁当をいつも通りに作っていた。しかし、包丁を持つ手が、ふと止まった。冷蔵庫にあった卵を一つ取り出し、それを割って、まな板の上に広げた。黄身が、まるで朝日を浴びた紅葉のように、鮮やかな色をしていた。佐和子は、その卵をそのままに、健一の弁当を持たずに家を出た。玄関のドアを閉める音が、いつもより静かに響いた。健一が目を覚まし、佐和子の「存在」を感じられなくなった時、彼は何をするのだろうか。佐和子にはもう、その「存在」を支える「家事」をする気はなかった。彼女の足取りは、かつてないほど軽やかに、秋の空へと向かっていた。