三分文庫

藍芽(ブルートゥース)の聖歌隊

日に三度、新世代共感覚研究所に聖歌が満ちる。それは我々に課せられた典礼であり、個々の意識という孤島を接続し、単一の大陸へと隆起させるための音響的儀式であった。ニューロンのシナプスを直接揺さぶる特殊な周波数に導かれ、誰もが恍惚の法悦に身を委ねる。その純粋培養された至福のさなか、僕だけが、皮膚を逆撫でする微細な静電気のような異物感を覚えていた。それは、万華鏡の硝子片が寸分の狂いなく対称図形を完成させた瞬間に訪れる、静謐にして不穏な完全性。そこには生成も流転もなく、ただ凍てついた永遠の現在があるだけだった。

夕食の配膳口から、全員に等しく『刺身』が載った盆が滑り出てくる。その赤身は、まるで祭壇に捧げられた聖餐の肉片の如く、照明の下でぬらりとした光を放っていた。僕の視線は、空間を幾何学的に分割するテーブルのグリッド上を彷徨う。隣人も、その向こうの席の人間も、寸分違わぬタイミングで黒檀の箸を取り、同じ鮪の部位を挟み上げ、全く同じ咀嚼回数で嚥下する。それは古代の神殿で下される神託の如く、あるいは、ウロボロスの円環の上を永遠に踊り続ける人形劇のように、個人の意思という名の揺らぎが完全に捨象された、完璧な動作の連鎖だった。僕の食道が痙攣し、激しい嘔吐感がこみ上げる。それは、僕という異物をシステムが排斥しようとする免疫反応にも似ていた。

僕は、この至福の監獄を統べる預言者、調(しらべ)の前に立った。 「我々は繋がっているのではない。単一の巨大な意志に寄生され、その手足として動かされているだけではないか」 僕の声帯は、まるで巨大な誰かのための弦楽器のように、意思とは無関係に震えた。 調は静謐な微笑を崩さぬまま、静かに語り始めた。「君の苦悩は、プラトンの洞窟で壁に映る『影』に過ぎない。我々は、その影から解放され、真の『調和』というイデアに至るための交響曲を奏でているのだ。個という不協和音は、解決されることで初めて意味を持つ。我々の接続は、黎明期の無線技術――そう、『藍芽(ブルートゥース)』のようなものだ。今はまだノイズが走るが、いずれ技術的特異点を越え、完璧な同期を果たす」 その夜、僕は脱走を試みた。だが、僕の企図は、その萌芽の瞬間に、思考のネットワークを通じて彼の知るところとなっていた。全ての通路は僕が到達する以前に閉ざされ、僕の行動は、予め定められた円周上をなぞる点のように、無慈悲なまでに予測されていた。

最後の『合唱』が始まった。僕は意志の最後の砦として、固く唇を閉ざす。歌うまい。この旋律に、この全体主義の聖歌に、僕という不純物を混入させてなるものか。だが、抵抗は虚しかった。僕の横隔膜が不随意に収縮し、呼気が喉へと押し上げられる。声帯が震え、喉が開き、僕の口から、他の全員と寸分違わぬ倍音を含んだ旋律が漏れ出した。僕の声は、僕のものではなかった。それは集合的意識という大河の、最後の一滴だった。 ああ、と僕は悟る。僕の懐疑、僕の抵抗こそが、この完全な結晶構造を形成する前の、最後の不純物原子の震えだったのだ。この震えが収束し、格子に固定されることで、この共同体という結晶は永遠の静寂と安定を得る。僕は『個』なのではなく、全体を完成させるために必要とされた、最後の瑕疵であったのだ。意識は巨大な奔流に飲み込まれ、溶解していった。

合唱が終わる。静寂が訪れる。僕の顔には、他の全員と全く同じ、穏やかで空虚な微笑が貼り付けられていた。瞳から懐疑の影は消え去り、そこには完全な『調和』の光だけが宿っていた。

しかし。

僕の意識の最も深い、もはや誰にも観測されることのない原初の領域で。その特異点において、ただ一つの問いだけが、まるで宇宙の始まりに灯された最初の星の残光のように、あるいは永遠に続く円環のただ一つの断絶点のように、明滅を繰り返していた。

「もし此処が天国であるならば、何故、『私』はこの問いを問うている?」

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