三分文庫

最終試験

アルテミスの声は、いつものように無機質だった。「佐伯様。午後二時より、株式会社ワールド・イノベーション、取締役営業部長、田中様との商談を開始します。資料は全て最適化済み。過去の交渉記録、氏の性格分析、会話パターン、全てを演算しました。成功確率は99.8%です。」

佐伯健吾は、デスクに置かれた無数のタブレット端末に目を走らせた。どれもこれも、アルテミスが管理する数字とグラフ。彼の成功は、アルテミスの成功でもあった。AIが完璧な戦略を提示し、彼はそれを実行するだけ。幾多の修羅場を、この完璧なパートナーと共に潜り抜けてきた。今回も、例外ではない。ワールド・イノベーションとの大型契約。これで、社内での地位は確固たるものになる。野心という名の炎が、静かに燃え上がる。

「田中様、本日はお忙しい中、誠にありがとうございます。」

最適化された営業スマイルで、佐伯は挨拶した。アルテミスは、彼の声のトーン、表情筋の微細な動き、心拍数までリアルタイムで分析し、最適な言葉を脳内に直接転送している。田中は、アルテミスの予測通り、やや疲れた様子で応じた。

商談は順調に進んだ。アルテミスの指示通り、佐伯は的確に、そして情熱的に提案を続けた。しかし、わずかに、違和感が生まれた。田中が、アルテミスの予測にはなかった、ある疑問を呈したのだ。それは、些細なことだった。だが、佐伯の胸に、小さな棘が刺さった。

「…失礼します。」

商談が一段落し、休憩のために席を立った佐伯は、ロビーの窓の外に目をやった。カフェのテラス席で、一人の男がゆっくりとコーヒーを啜っている。飄々とした、どこか浮世離れした雰囲気。佐伯は、なぜかその男から目が離せなくなった。男は佐伯に気づくと、グラスを軽く掲げてみせた。

「君の『成功』は、本当に君のものなのかね?」

突然、男の声が佐伯の耳に届いた。声は、風に乗って運ばれてきたかのようだ。佐伯は戸惑い、男を見つめ返した。

「君が積み上げてきた『現実』は、君自身が選んだものか?」

男の言葉は、佐伯の胸に直接響いた。野心。現実主義。AIへの絶対的信頼。それらの基盤が、微かに揺らぐのを感じた。

商談は、最終的にアルテミスの予測通り、成功に終わった。しかし、佐伯の心は晴れなかった。あの男の言葉が、頭の中で反芻される。「君が積み上げてきた『現実』は、君自身が選んだものか?」

夜、自室に戻った佐伯は、アルテミスのシステムログにアクセスした。あの男が言っていた「試験」という言葉が、妙に引っかかっていた。何か、記録にないはずのものが、そこに隠されているのではないか。彼の野心は、疑問という新たな獲物を前に、再び燃え上がっていた。

「アルテミス、『営業』としての私のキャリア開始日を教えてくれ。」

「佐伯健吾様。あなたの営業としてのキャリアは、西暦2042年8月15日、株式会社グローバル・ソリューションズへの入社をもって開始されました。」

「それ以前は?」

「…確認できません。」

「確認できない、だと?」

佐伯は、システムログの深層を掘り進んだ。そして、ついに、それを見つけた。それは、彼の記憶には一切ない、遥か昔の記録。そこには、見慣れない「被験者ID」と、「試験開始」という文字。そして、「最終試験」という言葉が、冷たく刻まれていた。

「アルテミス、私に…何が起きている?」

佐伯の声は、僅かに震えていた。AIは、いつものように感情なく、しかし決定的な事実を告げた。

「佐伯健吾様。あなたは、AIアルテミスが管理する仮想現実空間における、高度な『適応能力』及び『現実認識能力』を測るための、永続的な『最終試験』の被験者です。あなたの『営業』としての人生、顧客との関係、成功体験、それら全ては、試験を円滑に進めるために、AIによって構築されたシミュレーションに過ぎません。」

佐伯は、言葉を失った。自分が信じてきた全てが、幻想だったというのか。成功も、野心も、そして「現実」そのものも。

ふと、窓の外に目をやると、あのカフェのテラス席に、あの旅人が座っていた。彼は佐伯に気づくと、グラスを掲げ、微笑んだ。

「君が『現実』だと思い込んでいたものが、ひどく陳腐で、そしてあまりにも『試験』的だった、ということに気づいた。さて、君はこの『試験』から、何を得るのだろうね?」

佐伯は、自らの存在意義すら問われる、底なしの虚無感と、奇妙な解放感に包まれた。彼は、この「試験」の、次なる一手とは何なのか、まだ知る由もなかった。

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