三分文庫

焦熱とスパイスの事象地平線

日曜日の夕暮れは、いつだって消化不良の味がする。

重力は安酒を煽ったあとの千鳥足のようにふらつき、天井から吊り下げられたペンダントライトは、振り子のように揺れながら、あちらとこちらの境界線を曖昧に照らし出していた。窓の外に広がっているのは、燃えるような夕焼けではない。あれは、もっと生々しく、湿潤で、規則的に脈動する赤色――恐らくは、この世界を包み込む巨大な胃袋の内壁だ。

そのダイニングキッチンの中心、現実という名のテーブルクロスの綻びから滲み出たかのように、正体不明の「料理」が鎮座していた。

それは、熱された鉄板の上で肉の繊維が断末魔を上げるような「ジュウ」という鋭利な音と、鍋の底で野菜たちが自我を放棄してくたくたに煮崩れていく「コトコト」という湿った音を、同時に奏でていた。香ばしい焦燥感と、とろりとした諦念の匂いが混ざり合い、鼻腔の奥にある記憶の蓋を無理やりこじ開けようとしてくる。

「……定義が必要だ」

食卓の北側、重厚なマホガニーの椅子に深く腰掛けた父が、低い声で唸った。彼は右手にトングを握りしめている。それは単なる調理器具ではなく、混沌とした世界から意味のある断片をつまみ上げ、分類するための指揮棒のように見えた。

「この現象に名前を与え、その輪郭を確定させなければならない。名付けられぬものは、存在しないも同然だからだ。そう、形あるものは、名前という檻に入れて初めて安寧を得る」

父の言葉は辞書の紙質のように硬く、乾いていた。しかしその瞳の奥には、いつかその檻さえも錆びついて朽ちることを知っている者の、静かな哀しみが揺らめいている。

対面の南側に座る娘は、銀色のスプーンを絵筆のように優雅に構え、ふふ、と笑った。彼女の輪郭は陽炎のように揺らぎ、どこまでが彼女の肌で、どこからが空気なのか判然としない。

「お父様はいつもそう。線を引きたがるのね。でも見て、この素晴らしい曖昧さを。固体と液体が手を取り合ってダンスをしているわ。名前なんて無粋な箱に閉じ込めないで、ただ感じればいいのよ。世界はもっと、ドロドロとしていて素敵なものだわ」

娘の言葉は、主語と述語が液状化して入れ替わる。けれどその響きは、複雑に調合されたスパイスのように、父の論理の隙間を鋭く突き刺した。

父は眉間の皺を深くし、トングの先を眼前の料理へと突きつけた。

「いいか、よく見ろ。この焦げ目、この脂の跳ね方。これは『焼肉』だ。即ち、炎による浄化の儀式であり、生贄を捧げる祭壇だ。肉体という牢獄を熱によって焼き払い、純粋なカロリーへと昇華させる。これこそが秩序だ」

父がそう断言した瞬間、ダイニングの気温が劇的に跳ね上がった。エアコンの送風口から熱風が吹き出し、窓にかかるレースのカーテンが、ちりちりと音を立てて端から焦げ落ちていく。壁紙が熱を帯び、室内の湿度が蒸発して、肌がひりつくような乾燥が空間を支配した。言葉が物理的な熱量を持って、世界を書き換えたのだ。

娘は汗ひとつかかず、スプーンで空気を掬うような仕草をした。

「いいえ、違うわ。これは『カレー』よ。全てを抱擁する黄金の泥だわ。人参も、じゃがいもも、昨日の悲しみも、明日の不安も、すべてが溶け合って一つの宇宙になるの。境界線を失うことこそが救済なのよ」

娘が囁くと、灼熱だった床が突如として沼のように波打ち始めた。フローリングの木目が渦を巻き、父の椅子の脚がずぶずぶと沈んでいく。空気は重く、ねっとりとした湿度を帯び、スパイスの芳香が黄色い霧となって視界を覆った。家具たちが形を保てなくなり、飴細工のようにぐにゃりと歪み始める。

「焼肉だ! 愛とは、相手の輪郭を焼き付け、その存在を網膜に固定することだ!」

父の叫びは不可視の熱線となって放射され、娘の頬を焼いた。しかしそれは傷ではなく、極上のミディアム・レアの焼き色となって、娘の肌に香ばしい艶を与える。

「カレーよ! 愛とは、互いの原形がなくなるまで煮込まれて、どろどろに溶け合うことだわ!」

娘の反論は、クミンとコリアンダーの鋭利な粒子となって父に襲いかかった。父が息を吸い込むたびに、その肺胞は強烈な刺激に満たされ、呼吸器そのものがカプサイシンの海に溺れる。咳き込むたびに、論理的な思考回路がスパイスの奔流によってショートし、意識が心地よく麻痺していく。

熱い。辛い。痛い。旨い。

感覚のチャンネルが混線する。痛みと食欲の区別がつかなくなる。父の放つ熱が娘を焼き、娘の放つ混沌が父を侵食する。二つの定義が衝突する地点、食卓の中央に、事象地平線が出現した。

そこでは、焼肉の網のグリッドと、カレーのルーの流動性が拮抗し、光さえも脱出できない「美味の特異点」が生まれていた。

「理解させなければ……お前を、私の定義で!」 「混ざり合いましょう……お父様も、このスープの一部に!」

二人は同時に手を伸ばした。互いを喰らい尽くし、自らの解釈の中に相手を収めようとする、最も原初的な愛の形。

しかし、伸ばした腕は、もはや人間のそれとは異なっていた。父の指先は炭火で炙られたカルビのように脂を滴らせ、娘の手首は長時間煮込まれた玉ねぎのように透き通り、繊維がほどけかかっている。

「あ……」

父は自身の腕がトングと同化し、金属と肉のハイブリッドになっていくのを見た。硬質な定義を好んだ彼自身が、最も定義不可能な存在へと変わり果てていく。

「ふふ、きれい……」

娘は自身の体がカレールーの海に溶け出し、スプーンの銀色が静脈を流れていくのを感じていた。彼女が望んだ通り、彼女は世界そのものになろうとしている。

もはや、どちらが食べる側で、どちらが食べられる側なのか、誰も判断できない。焼肉とカレーの境界線は消失し、父と娘の境界線もまた、湯気の中に霧散した。

意識がとろとろに煮詰まっていく。思考の角が取れて、まろやかなコクへと変わる。

ああ、これが日曜日の正体だったのだ。

私たちは、週末という名の鍋の中で、ゆっくりと調理されていたに過ぎない。窓の外の赤い脈動に合わせて、ダイニングキッチンという巨大な胃袋が収縮を始める。壁が迫り、天井が落ちてくる。しかし、そこに恐怖はない。

自分が溶けて世界になるのか、世界が溶けて自分になるのか。

その問いさえも、甘美な肉汁とスパイシーなソースの渦に飲み込まれて消えた。残されたのは、永遠に続く心地よい消化不良の余韻だけ。ふっと、照明が落ちるように、あるいは満腹のあとの微睡みのように、彼らの物語はスープの底へと沈んでいった。

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