三分文庫

白紙の公案

意識は、永劫の凍結から解き放たれた始原のアメーバのように、緩慢に浮上した。ここはクロノスの支配が及ばぬ静寂の淵。四畳半の宇宙、無窮の茶室。水墨画然とした空間の重心に、能面のごとき無表情を浮かべた人物が座していた。彼と私の間、黒漆の盆の上には、ウロボロスの蛇にも似た紋様を背負う、一組のカルタが鎮座している。

「主人」と、私の喉が音にならぬ音でそう呼んだ。彼はクロトンのアスクレピオスが病人に施す神託の如く、静かに口を開く。

「汝というテクストを解体し、その註釈の虚偽を暴く聖別の儀を始めよう」

主人の指が、束から数枚のカードを滑らせ、私の前へと配る。それらは「汝の章句」であると彼は言う。自己同一性を担保する公理の束。これをすべて失うことは、デカルト的な我思う、の確実性さえもが霧散し、存在論的な忘却の彼方へと消え去ることを意味するのだという。

儀が始まった。それは、互いが保持する存在の章句を場に晒し、より高次の論理、より根源的な形而上学の刃をもって相手のそれを形骸化させる闘争であった。

私はまず、指先に感じる畳のささくれ、その微かな痛みのクオリアを提示した。「この、誰にも代理され得ぬ質感を伴う知覚こそ、私の実存の確たる証左である」と。

主人は、まるでプラトンの洞窟の奥から語りかけるように、静かに首を振る。「それはイデアの影。実在から幾重にも劣化した、感覚器官という不実なスクリーンに映る幻燈に過ぎぬ」

次に私は、遠い夏日に交わした、ある女との誓いの記憶を差し出した。その声の熱、風に揺れる黒髪の光沢。記号の連鎖に還元され得ぬ、唯一無二の経験として。

「哀れなるかな」と主人は呟く。「汝が愛と呼ぶもの、それは他者の眼差しという鋳型によって成形された借り物の仮面。サルトルが喝破した、他者という地獄そのものではないか」

私の章句は、神話の巨人に挑む英雄の剣のように、次々と打ち砕かれていく。愛も、記憶も、痛みさえも、より巨大な物語の文脈の中に回収され、その固有性を剥奪されていった。

追い詰められた私は、最後の、そして最強の章句を手に取った。これらすべてを疑い、苦悩し、思考する「私」という意識そのもの。あらゆる存在証明の根源たる、コギトという不動点だ。

「その『私』を観測しているのは、果たして何か」

主人の問いは、宇宙の静寂を切り裂く刃となって私の胸を貫いた。同時に、彼は一枚のカードを場に置く。それは、純白だった。あらゆる定義を拒絶し、あらゆる可能性を孕んだ、白紙のカード。その白は、障子の向こうに広がる絶対的な白と共振し、脈動を始める。それは禅僧が突きつける「無」の公案。色彩の始原である光そのもの。ビッグバン以前の、まだ何ものにも分化せぬ特異点にも似た、恐るべきポテンシャル。

白紙のカードを前に、私は自らを定義するあらゆる言葉を失った。自己というテクストはついに解体され、構成していた文字たちは意味の連環を解かれ、霧散していく。敗北。その認識と同時に、私の身体の輪郭が揺らぎ始めた。

溶解する意識のなか、主人の声が響く。それはもはや、裁定者の声ではなかった。

「勝敗などない。これは、あなたが『存在』を問い続けるための儀式なのだから」

私の意識は、個という束縛から解き放たれ、純粋な問いそのものへと変質する。そして、その問いは、静寂に満ちた茶室へと、新たな挑戦者を待つ主人の視座へと、ゆっくりと収斂していくのだった。

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