三分文庫

川辺のレクイエム

川のせせらぎが、静かに部屋を満たしていた。佐伯遥は、お気に入りの音楽を小さな音で流し、窓の外を流れる川の音に耳を澄ませる。幼い頃に両親を亡くし、伯母に育てられた彼女にとって、この静寂と、遠くから聞こえる水の音だけが、唯一変わらない慰めだった。彼女の心の支えといえば、幼馴染の高橋健一。そして最近、同じマンションに越してきた小野寺陽菜という、年下の女性とも親しくなった。陽菜の屈託のない明るさは、遥の閉じた心に差し込む陽光のようだった。陽菜は頻繁に遥の部屋を訪れ、音楽の趣味を共有したり、遥の悩みを聞いたりした。遥は、健一との関係についても、陽菜には自然と話すようになっていた。健一は、遥にとって家族のような、何でも話せる唯一の友人だったのだ。

陽菜が健一の話題に触れるたび、遥はかすかな違和感を覚えた。陽菜は、遥の知らない健一の一面を知っているかのような、意味深な微笑みを浮かべるのだ。ある日の夕暮れ、健一から電話がかかってきた。「最近、陽菜ちゃんとよく会っているようだけど、大丈夫か? 俺は心配なんだ」。その言葉は、心配しているというよりも、どこか牽制するように聞こえた。妹のように思っているはずの健一が、陽菜の存在を快く思っていない。その裏には、遥の人生を自分の手でコントロールしたいという、見え透いた支配欲の片鱗が垣間見えた気がした。

陽菜は、遥の恋愛観や過去の恋愛について、探るような質問を投げかけるようになった。「遥さん、健一さんのこと、本当に友達だと思ってる? きっと、健一さんの方が、遥さんのこと、特別に思ってるんじゃない?」陽菜のからかうような言葉は、遥の心に小さな棘となって刺さった。健一への依存を指摘されたような、居心地の悪さを感じたのだ。一方、健一もまた、遥が陽菜と親しくなったことを露骨に快く思わない素振りを見せ始めた。「あの子は、遥のこと、利用しようとしているんじゃないか? 俺は、遥のことが心配なんだ。俺だけが、遥のことを本当に理解できている」。健一は、以前にも増して遥を気遣う言葉を口にするようになったが、その言葉の裏には、遥の人生から陽菜を排除し、自分だけのものにしたいという、露骨な独占欲が滲み出ていた。遥は、健一の言葉に、かつて感じた支配欲の残滓を再び感じ、胸騒ぎを覚えた。

ある晩、健一から「今からそっちに行ってもいいか?」と連絡が入った。部屋で彼を待っていると、健一はいつもの穏やかな表情で現れた。そして、その手には、遥が以前から欲しがっていた、限定版の音楽配信のギフトカードが握られていた。「これ、陽菜ちゃんが探してたって言ってたろ? 俺が見つけてきたんだ。喜ぶ顔が見たいからな」。健一はそう言って、遥の隣に座り、彼女の肩にそっと手を置いた。その時、遥のスマートフォンの通知音が鳴る。陽菜からだった。「遥さん、大変! 今、健一さんの車が川に落ちたみたい! ニュースで見たんだけど…」遥は、送られてきたニュース映像に目を疑った。映っていたのは、事故を起こした車。それは、健一が乗っているはずの車だった。そして、その車の助手席には、見覚えのある人物が座っていた。それは、陽菜だった。陽菜は、遥に『健一さんの車、私を乗せて川に落ちたの。彼は私に夢中だったから、きっと私を助けようとして…』と、涙ながらに、まるで悲劇のヒロインを演じるかのようにメッセージを送ってきた。遥は、健一が自分に隠れて陽菜と会っていたことを悟る。しかし、それ以上に、陽菜のメッセージに込められた、遥への確かな悪意を感じ取った。健一が遥に渡したギフトカードは、陽菜に渡すための口実でしかなかったのだ。健一の「心配」も、陽菜の「親切」も、すべては遥の心を操るための、計算された嘘だったのだ。

警察の捜査が始まる。健一の車から、陽菜の所持品が多数発見された。健一が、遥に隠れて陽菜と頻繁に会っていた証拠が次々と明らかになる。陽菜は、遥に「健一さんが私に夢中になって、あなたを避けるようになったから、つらかった」と、涙ながらに訴える。しかし、遥は、陽菜の言葉の裏に隠された、遥の愛情を奪い、健一を支配しようとしていた本心を見抜いていた。そして、遥は、健一が事故の直前、陽菜に『遥には、もう何も言わない。君だけだ』と送っていたメッセージを発見する。遥は、健一が自分を「都合の良い存在」としていたこと、そして、陽菜の「親切」が、遥の信頼を逆手に取った巧妙な罠であったことを理解する。事故現場の川は、静かに流れ続けていた。遥は、陽菜が遥に「健一さんとの思い出」として見せていた写真と、全く同じ場所で撮影された、健一と陽菜の楽しそうな写真を見つめる。陽菜は、遥の「健一さんへの想い」を利用し、健一との関係を深めていたのだ。陽菜が遥に送った事故の第一報のメッセージ。そのあまりにも完璧なタイミングと、遥の心を抉るための言葉尻の不自然さに、遥は確信した。陽菜は、遥への「嫉妬」と「優位性」を示すために、遥の最も信頼していた人物の「屍」を、遥の目の前に突きつけたのだ。遥は、川のせせらぎを聞きながら、静かに微笑んだ。その微笑みは、虚無と冷たい怒りに満ちていた。健一の死は、遥にとって、失ったものよりも、見せつけられた真実の重さの方が遥かに大きかった。陽菜の巧妙な計画と、健一の裏切り。それらは、遥が信じていた「善意」や「友情」といったものの薄っぺらさを露呈させ、彼女の心を深く傷つけた。静かに流れる川のように、遥の心には冷たい虚無感が漂い、二度と人を信じることのない、孤独な未来が静かに示唆される。

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