揚げ油に燃える愛、舞台裏の慟哭
地方の小さな演劇祭の熱気が、老舗割烹料理店の舞台裏を焦がしていた。薄暗い厨房と、色とりどりの照明に照らされる舞台。その二つの空間を、佐和子は息つく暇もなく行き来していた。舞台監督と女将。二つの顔を使い分ける彼女の心は、愛憎の炎に焼かれていた。祭りの目玉は、夫・健一が腕を振るう「特別な天ぷら」。あれは、新婚旅行で訪れた、あの海辺の町で食べた、佐和子が夢見た味だった。あの頃、二人の間には、こんなにも歪んだ熱はなかったはずだ。
稽古が進むにつれ、健一の様子がおかしくなっていった。佐和子の指示には、露骨な反発が返ってくる。食材を扱う手つきは、かつての繊細さを失い、まるで憎しみを込めるかのように雑になっていた。佐和子は知っていた。健一がかつて憧れていた、あの伝説的な劇団の演出家が、この祭りにゲストとして来ることを。健一の顔に浮かぶ、あの焦燥と嫉妬。佐和子の胸にも、夫への苛立ちは募る。そして、それ以上に、かつて健一が自分に向けた、あの熱く激しい情熱を、今、どこに求めているのか、その空虚さに息が詰まる。
祭りの前日。揚げ油の匂いが充満する厨房で、健一は佐和子の顔の前で、油の鍋をわざと揺らした。熱い飛沫が、佐和子の頬を掠める寸前で、健一は鍋を戻す。その、歪んだ愛情表現に、佐和子の怒りは沸点を超えた。だが、それだけではなかった。口に運んだ天ぷらの、あの隠し味。それは、かつて佐和子を深く傷つけた、元恋人の好んだスパイスだった。あの男の匂いが、健一の天ぷらに纏わりついている。佐和子の胸中に、抑えきれない激しい怒りが、マグマのように燃え上がった。
祭りの当日。舞台は、観客の熱狂に包まれていた。しかし、舞台裏では、もう一つの熱が、静かに、しかし確実に、臨界点へと近づいていた。観客を前にした天ぷらの試食会。佐和子は、健一が揚げ油を、わざと焦がし、あの特別な天ぷらの味を台無しにしたことを確信した。厨房に響く、健一の怒声。「俺を、ただの器用な板前としか見ていないだろう!」その声は、過去の裏切り、そして佐和子に求めていた愛情への、痛ましい叫びだった。「あんたは、私の何を知っているって言うの!」佐和子もまた、健一の嫉妬、そして自分に向けられた歪んだ愛情、それを冷酷に無視してきた自分自身を、激しい言葉で叫び返した。二人の感情は、揚げ油の熱気と相まって、舞台裏で、激しく、そして無慈悲に爆発した。
「あんたなんか、もうどうでもいい!!!」佐和子の絶叫が、割烹料理店の厚い壁を突き破り、舞台裏に響き渡った。健一の顔は、憎悪と、そして歪んだ愛情で歪んでいた。震える手で、健一は揚げ油の鍋を掴んだ。その油は、二人の熱情が煮えたぎるまま、不気味な光沢を放っていた。鍋が宙を舞い、佐和子に向かって振りかざされる。飛沫が佐和子の肌を焼き、健一の顔に映る、怒りと執着の炎が、油の光に乱反射して燃え上がった。熱い油が、宙を舞い、二人の顔に、その破滅的な愛の炎を迫らせる刹那――。