トンネルを抜けた先の茶室
夫の健一を亡くして以来、佐和子のキッチンは静まり返っていた。彼が好きだった煮物も、週末に一緒に作ったカレーも、もう何を作る気にもなれなかった。冷蔵庫には、健一が「美味い」と目を細めてくれた数々の料理のレシピが、まだそのまま残っている。だが、それを開くたびに胸が締め付けられるのだ。健一が事故で逝ってから、もう一年になる。その事故現場は、この町から少し離れた山道。いつもなら、彼女が運転する車で、二人で訪ねる茶室へと続く道だった。
今日は、久しぶりにその茶室へ行ってみようと思った。健一との思い出が、少しだけ整理できるかもしれない。茶室へ向かうには、今はもう使われていない、古びたトンネルを抜けなければならない。かつては、健一と手をつないで、あるいは肩を並べて歩いた道。しかし、今は草木が生い茂り、薄暗い。トンネルの入り口に立つと、ひんやりとした空気が肌を撫でた。覚悟を決めて、佐和子は一歩を踏み出した。
トンネルを抜けると、そこには昔と変わらない、静かな茶室があった。しかし、人の気配はまばらで、どこか寂しげな空気が漂っている。庭の木々は手入れされているものの、どこか物悲しい。そんな茶室の片隅で、佐和子は一人、縁側に腰を下ろした。すると、穏やかな笑みを浮かべたおばあさんが、お茶を運んできてくれた。
「ようこそおいでくださいました。お一人ですか?」
おばあさんのゆっくりとした、落ち着いた話し方が、佐和子の張り詰めていた心を少しだけ和ませる。
「はい、一人です。夫の…思い出の場所なので」
佐和子の声は、かすかに震えていた。おばあさんは、佐和子の様子に気づいたのだろう。茶道をしながら、静かに語り始めた。
「人生とは、不思議なものですね。時には、遠回りや、無駄に思える道を通ることもある。でも、その全てが、今の自分に繋がっているのかもしれません」
「無駄…」
佐和子は、その言葉に強く心を打たれた。健一との思い出が、まるで色褪せた写真のように、しかし鮮明に蘇る。彼と過ごした時間が、あまりにも短く、そして突然終わってしまったことが、時折、無駄だったのではないかとさえ思ってしまう。そんな苦しい思いを、佐和子は静かに口にした。
「夫との思い出が…無駄だったのではないかと、時々怖くなります」
おばあさんは、静かに佐和子の言葉を受け止めた。そして、穏やかな眼差しで問いかけた。
「奥様、旦那様が、奥様の『ご飯』について、特別な思い出をお話しされたことはありませんか?」
「ご飯…?」
佐和子は、その問いかけに首を傾げた。健一が最後に一緒に食べた「ご飯」。それは、特別豪華なものではなかった。ありふれた、いつもの夕食。でも、健一は、その時の「ご飯」を、いつにも増して美味しそうに食べてくれたのだ。「最高に美味しいよ、佐和子」と、満面の笑みで言った。その温かい言葉と、彼の顔が、佐和子の胸に蘇る。そう、あの事故は、この茶室の近くで起きたのだ。トンネルを抜けた、あのカーブの先で。
佐和子は、おばあさんにお茶を勧められ、震える手で湯呑みを受け取った。そして、茶室の片隅で、健一が愛した「ご飯」を、静かに一人、食べた。それは、彼女が久しぶりに作った、シンプルな卵かけご飯だった。トンネルを抜けた先にあったのは、過去の暗闇ではなく、夫との温かい記憶と、これから生きていくための「ご飯」の、確かな温もりだった。
「ごちそうさまでした」
佐和子はおばあさんに頭を下げた。その声には、もう震えはなかった。おばあさんは、ただ静かに微笑み返した。佐和子は、茶室を出て、再びトンネルへと向かう。その足取りは、来た時よりも、ほんの少しだけ軽やかになっていた。ほろ苦い喪失感と共に、大切な人との思い出が、未来を歩むための温かい糧となることを、彼女は静かに感じていた。