禁じられた水面

春の陽光がまだ冷たい校門をくぐり、私は水野遥、この全寮制女子高の新入生となった。創立以来、鉄壁の如く守られてきた校則は、想像を絶するほど厳格だった。そのどれもが、私のような常識的な人間には、理解し難いものばかり。特に「夜間、指定区域外の校内を徘徊してはならない」という校則には、一体どんな意味があるのだろうか。夜の闇に紛れて、生徒が校内を歩き回ることを、そこまで恐れる必要があるのだろうか。

慣れない寮生活に戸惑いつつも、なんとか日々をこなしていた。そんなある夜、自室の窓からぼんやりと外を眺めていると、寮監の目を盗んで、風紀委員の佐藤凛先輩が一人、校内の不気味な池のほとりを歩いているのを目撃した。月明かりに照らされた彼女の姿は、まるで夜の精霊のようでもあったが、どこか異様な雰囲気を醸し出していた。

翌日、勇気を出して凛先輩に尋ねてみた。「昨夜、池のそばにいらっしゃいましたよね?何かあったんですか?」

凛先輩は、氷のような冷たい視線で私を射抜いた。「校則違反者を見張っていた。それが風紀委員の務めよ。」

しかし、昨夜は特に変わった出来事は何もなかったはずだ。一体、誰を、何を見張っていたのだろうか。それ以来、私は池の周りにまつわる奇妙な「制度」の噂を耳にするようになった。

その「制度」とは、校則と深く結びついているらしい。かつて、この池で一人の生徒が不慮の事故で命を落としたという、おぞましい噂がまことしやかに囁かれていた。校則は、その悲劇を二度と繰り返さないための、一種の「儀式」として、形骸化しているのだと。しかし、その「儀式」は、生徒たちの自由を異常なまでに縛り付けていた。夜の外出禁止、友人との夜遅くまでの談笑の禁止。すべては、あの池に近づかせないため、あるいは、あの池に「捧げない」ためなのだろうか。

私は、この不条理な校則に、どうしても拭いきれない疑問を抱いていた。親友の美咲に相談しても、「校則は校則よ。逆らっても何も良いことはないわ。それに、あの池のことは…」と、曖昧に言葉を濁すばかりだった。

どうしても、凛先輩が夜中に一人で池のそばにいた理由が知りたかった。あの冷たい瞳の奥に隠された、何かを。ある晩、再び私は寮の窓から夜の校内へと目を向けた。そして、そこで見た光景に、息を呑んだ。

月明かりの下、凛先輩が静かに池に向かって何かを囁いている。そして、手に持った小さな石を、水面へと投げ入れた。波紋が静かに広がり、月光を乱反射させる。

「先輩!」

思わず声をかけると、凛先輩はびくりと肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。その顔には、驚愕と、そして、かすかな恐怖が浮かんでいた。

「…ここから離れなさい。この池は、校則を守らなかった者には、何もかも奪う…」

彼女の声は震えていた。その異常なまでの行動と、「校則を守らなかった者」という言葉に、私はある恐ろしい疑念を抱かずにはいられなかった。

凛先輩が、校則を守ることを異常なまでに強要する「制度」そのものを恐れているのではない。むしろ、その「制度」を絶対視し、校則違反者を「池」という名の怪異に「捧げる」ことで、自らの安寧を保とうとしているのではないか。彼女の狂気は、校則という名の檻の中で、静かに、しかし確実に育まれていたのだ。

「校則に従わないと…あなたも…池に…」

震える声で、私は凛先輩に詰め寄った。

凛先輩は、冷たく、そして妖しく微笑んだ。「あなたは、もう校則違反者よ。」

そう言うと、彼女は勢いよく私に掴みかかってきた。私は必死に抵抗したが、彼女の力は、私の想像を遥かに超えていた。ずるずると引きずられるように、私は池の縁へと追いやられた。そして、冷たい水の中に、私の体は沈んでいく。

水面は、静かに揺れるだけだった。

翌日、学校には何事もなかったかのように、普段通りの日常が戻っていた。凛先輩は、いつものように風紀委員の制服に身を包み、新たな「校則違反者」を探し始めていた。その瞳には、昨日まであったはずの、かすかな恐怖の色はもう見えなかった。

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