禁断の晩餐会

霧雨が煙るように、記憶の断片が佐伯譲二の脳裏をよぎった。古びた手紙の宛名にあった、人里離れた山奥の洋館。かつて著名な音楽家が住んでいたというその場所へ、彼は導かれるように辿り着いた。軋む音を立てて開かれた重厚な扉の向こうで、静謐な微笑みを湛えた女性が彼を迎えた。「ようこそ、佐伯様。お待ちしておりましたわ」藤堂綾子と名乗った彼女は、猫のようにしなやかな肢体で譲二を館内へと案内した。しかし、その瞳の奥に宿る底知れぬ冷たさが、譲二の胸に不穏な影を落とす。館は不気味なほど静まり返っていた。時折、どこからともなく聞こえてくるかすかなピアノの旋律が、その静寂を一層際立たせる。譲二は、失われた過去への渇望と、この館に漂う異様な雰囲気に、ただただ不安を募らせるばかりだった。

「この館には、特別な『条約』があるのです」綾子は、優雅な仕草で紅茶を注ぎながら言った。「外部との接触は、固く禁じられております。そして、この『ワイン』を召し上がれば、失われた記憶が、きっと蘇りますわ」綾子の言葉は、甘い毒のように譲二の耳に滑り込んだ。記憶を取り戻したい。その一心で、彼は差し出されたグラスを手に取った。琥珀色の液体は、不気味なほどに輝いていた。恐る恐る口に含む。しかし、舌を刺すような苦味だけが広がり、喉を焼いた。記憶は、依然として霧の彼方だった。

夜が更けると、館の奥から悲痛な「独唱」が響いてきた。それは、まるでこの世の憂いを全て背負ったかのような、魂の慟哭だった。譲二は、その歌声に引き寄せられるように、音のする部屋へと足を踏み入れた。そこには、古びたグランドピアノと、楽譜に埋め尽くされた綾子の姿があった。綾子は、静かに顔を上げた。「あなたは、かつてこの館で、ある『条約』を結んだのですよ」彼女の声は、静かな水面のように、しかし確かな響きを持っていた。「音楽家としての才能を、永遠に失わないために。そして、その代償として、あなたの記憶は封印されたのです」

綾子の語る「条約」とは、譲二が自身の才能の絶頂期に、それを永遠に失うことを恐れて自ら結んだ「記憶封印の契約」だったという。そして、その契約を破り、記憶を取り戻すために、彼は特殊な「ワイン」を飲み、自らの記憶を歪めていたのだ。夜な夜な響く独唱は、契約の代償として失われた「真実の自分」の断片だった。譲二は、自分が誰なのか、なぜ記憶を封印したのか、その全てが分からなくなってしまった。自分が、自分でなくなっていくような感覚に襲われた。

綾子は、慈愛に満ちた微笑みを譲二に向けた。「あなたは、もう一度、あの『条約』を結び直すことができます。永遠に、この館に留まるのです」彼女はそう言って、再び「ワイン」と書かれたグラスを譲二の前に差し出した。グラスの中身は、一層不気味なほどに輝きを増していた。記憶を取り戻すことの、底知れぬ恐ろしさ。このまま静かに「忘れる」ことの、抗いがたい誘惑。二つの間で、譲二の魂は激しく引き裂かれた。扉の外では、冷たい雨が、まるで彼の心の叫びを代弁するかのように、降り続いていた。彼は、グラスに映る自身の歪んだ姿を見つめ、ただ立ち尽くすしかなかった。

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