川辺の満足
夫を亡くして以来、佐藤恵子の日常は静寂に包まれていた。郊外の小さな町、蛇行する川が町並みを穏やかに縁取っている。毎朝の散歩は、そんな静寂の中で彼女が唯一見つけられる、ささやかな営みだった。
その日も、いつものように川沿いを歩いていた。ひんやりとした朝の空気が頬を撫でる。ふと、川岸に目をやった瞬間、恵子は息を呑んだ。水面から、何かがゆっくりと、しかし確実にもがくように這い上がってくる。ぬらりとした質感、不自然に捩れた肢体。それは、まるで深海から引き上げられた、あるいは泥に埋められていた、死人のようだった。
「まさか、幻覚…?」
震える声で呟いた。しかし、その「何か」は、確かに、一歩ずつ、地面を這うように岸辺を進んでいく。そして、その数が増えていく。まるで、川底から無数の亡霊が這い出してくるかのようだった。その時、背後からぶっきらぼうな声がした。
「ああ、また増えたか」
振り向くと、近所の田中健一が、いつもの無表情でこちらを見ていた。彼は、あの異様な光景に何の感情も示さない。
「た、田中さん…あれは、一体…?」
「ゾンビだよ」
田中はあっさりと答えた。ゾンビ。その言葉に、恵子の背筋を冷たいものが走った。しかし、田中はそれらを避けるでもなく、駆除しようとするでもなく、ただ、遠巻きに見ているだけだった。恵子もまた、恐怖と同時に、奇妙な安堵感を覚え始めていた。夫を亡くして以来、一人で抱え込んでいた孤独が、この異常な光景によって、薄まっていくような感覚。それは、まるで、自分だけではない、と語りかけてくるかのようだった。
ゾンビたちは、やがて町を徘徊し始めた。しかし、奇妙なことに、彼らは誰かを襲うでもなく、ただ、虚ろなうめき声を上げながら、目的もなく彷徨っているだけだった。町の人々はパニックに陥り、避難する者、警察に連絡する者、様々だったが、恵子は田中と共に、遠くから彼らを観察するようになった。彼らの虚ろな目は、かつて夫の瞳に宿っていた、あの諦めにも似た疲労感を思い出させた。夫の死後、恵子は夫の面影を必死に探していたが、見つからない。しかし、このゾンビたちの虚ろな目に、なぜか夫の姿を重ねてしまう自分がいた。
ある日、田中がぽつりと語り始めた。
「あれはな、元はと言えば、お前の旦那がやってたデイサービス施設の連中なんだ」
恵子の心臓が跳ねた。夫の死後、施設は閉鎖され、利用者たちは行き場を失ったという噂は耳にしていた。だが、まさか、あのゾンビたちが…。
「彼ら、飢えてるんじゃないんだ。ただ、誰かに必要とされたがってるんだよ」
田中の言葉は、静かな川のせせらぎのように、恵子の耳に滑り込んできた。飢えているのではなく、必要とされたい。
恵子は、ゾンビたちのうめき声に、もう一度耳を澄ませた。それは、もはや恐怖の響きではなかった。かすかな、助けを求めるような訴えに聞こえた。彼女は、ゆっくりと口を開いた。
「あなたたち、あの人…私の主人のこと、覚えてますか?」
夫の思い出。退屈だった日々の些細な出来事。恵子は、彼らに語りかけた。ゾンビたちは、ただ静かに、その虚ろな目で恵子を見つめている。その姿に、恵子はこれまで感じたことのない、不思議な「満足」を覚えた。誰かに話を聞いてもらえた、という充実感。
町は、ゾンビの蔓延る日常へと移行しつつあった。しかし、恵子だけは、彼らとの奇妙な共生の中に、静かな幸福を見出していた。彼女は、もう孤独ではなかった。彼女の周りには、夫の面影を宿した、静かにうめく人々がいたのだから。