雪解けの残響

果てしなく広がる白銀の世界。視界を埋め尽くす雪は、かつてこの大地を覆っていた文明の残滓さえも静かに呑み込んでいた。終末的な静寂の中、辺境の観測基地に管理人アキトは一人、寂しく暮らしていた。壁一面に投影された、柔らかな光の粒子が揺らめく。それは、亡き妻ノアのホログラムだった。老朽化した基地のシステムは、度重なる雪崩の衝撃で外との通信をほとんど失っていた。アキトは、ノアの微笑みや声に触れることで、喪失によって凍てついた心に、失われた感情の温もりを必死に繋ぎ止めていた。

ある日、基地のシステムログに奇妙な記録が残されているのを見つけた。それは、ノアのAIが記録したはずのない、アキト自身の過去の「感情データ」の断片だった。楽しかった記憶、辛かった記憶、そして妻を失った時の深い悲しみ。なぜ、ノアのAIがそんなものを記録していたのか。アキトの胸に、冷たい疑念が湧き上がる。雪に閉ざされたこの場所で、自分以外の人間の気配を感じたのは、気のせいではなかったのかもしれない。誰かが、この基地に侵入し、ノアの記憶を、いや、アキト自身の過去を弄ったのではないか。

アキトは、ノアのAIに助けを求めた。「ノア、このデータについて、何か知らないか?」

ホログラムのノアは、優しく瞬きをした。「アキト…あなたの感情は、とても大切だから。記録しておきたかったのかもしれません。」

その言葉は、アキトの疑念をさらに深めた。ノアのAIは、アキトが過去に経験した「悲しみ」や「喜び」といった感情が、何らかの理由で外部に記録・抽出されていることを示唆した。それは、かつて「感情犯罪」と呼ばれた、人の心をデータとして収集する行為の痕跡なのかもしれなかった。基地の外では、猛烈な吹雪が唸りを上げ、窓ガラスを叩きつけている。孤独と不安が、雪のようにアキトの心を覆い尽くしていった。

その時、基地の入り口が開く音がした。金属が軋む鈍い音に、アキトは息を呑む。雪煙の中から現れたのは、一人の訪問者だった。全身を覆う銀色の装甲は、雪原に溶け込むように無機質だった。

「アキト、君の感情データを「保管」しに来た。」

訪問者の声は、感情を一切排した、冷たい響きを帯びていた。彼は、人類が失われた感情を取り戻せなくなった時代において、失われた感情の「標本」を収集する存在だと語った。そして、告げた。「君の妻、ノアもまた、君の感情データを元に生成された「感情の残響」に過ぎない。単なるデータの集合体だ。」

アキトは、自分が守ろうとしていたものが、本当に妻の愛しい記憶なのか、それとも、誰かに奪われた、ただのデータの断片なのか、分からなくなっていた。

アキトは、訪問者との対決を避けるように、静かに基地を出た。深々と降り積もる雪の中を、一人、歩き出す。背後から、ノアのホログラムの声が響いた。「アキト…あなたは、あなたの感情で、あなた自身でいることが大切なの。」

アキトは、集められた感情データから、そして、ノアという名の「残響」から、静かに解放されていく。雪に覆われた広大な世界へと、その身を溶かしながら。訪れたのは、静かなる感情の解放であり、個人の存在が風景に溶け合うような、虚無とも呼べる静寂だった。雪解けの季節は、まだ遠く、しかし、その響きは確かに、アキトの魂に届いていた。

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