星屑の羅針盤

古びた真鍮の鍵は、祖母の手の温もりをそのまま宿しているかのようだった。海斗はその鍵を、まるで宝物のように指の間で転がす。それは、彼だけが見ることのできる、奇妙な光景――帆船が雲海を駆け、星屑が海面を照らす、そんな大航海時代を思わせる異世界の断片的な記憶を呼び覚ます不思議な力を持っていた。なぜ、自分にこんな記憶が見えるのか。祖母は何も語ってはくれなかったが、この鍵だけは確かに、その世界への繋がりを告げていた。

いつものように、潮風が肌を撫でる港町を散歩していた時のこと。背後から弾むような声がした。「ねぇ、海斗!見て!」

振り返ると、幼馴染の汐里が、息を切らせながら駆け寄ってきた。彼女の手にあったのは、海斗が持つ鍵と、驚くほどそっくりな形をした、貝殻でできた小さなペンダントだった。それは、淡い光を放ち、まるで海の精霊が宿っているかのようだった。

「これ、夢で見たんだ。あなたがあげるって…」

汐里は少し照れたように、でも真剣な瞳でそう言った。海斗は、そのペンダントから、自分の鍵と通じ合うような不思議な感覚を覚えた。

その日の午後、海斗は港の片隅にある古びた古書店に立ち寄った。埃っぽい空気と、羊皮紙の匂いが混じり合った、不思議な空間。そこで彼は、一人の老人と出会った。白髪の老人は、海斗が握りしめている鍵に気づくと、ゆっくりと顔を上げた。

「それは、『記憶の扉』を開く鍵じゃな」

老人の声は、静かな波音のように響いた。「お主の祖母は、かつて大航海時代に失われた『星屑の海』を目指した、志高き者だった。その海は、失われた物語と、無限の可能性を秘めている」

そして、老人は汐里のペンダントにも目を向けた。「その娘の持つペンダントは、お主の鍵が解き放つ記憶の断片を、この世界に繋ぎ止めるための『錨』。二つは、互いを補い合うために、時を超えて引き寄せられたのじゃ」

店を出ると、夕暮れが港を茜色に染めていた。祖母が遺した古い手紙を思い出す。「鍵は、君の心の中に。そして、そばにいる大切な人の温もりを忘れずに」

その時、不意に、背後から苦しげな呻き声が聞こえた。振り向くと、汐里がその場に崩れ落ちそうになっていた。彼女の首にかかるペンダントが、急速に光を失っていく。まるで、彼女の中から大切な何かが、急速に失われていくかのようだ。

「汐里!」

海斗は駆け寄り、彼女の肩を抱き寄せた。汐里の瞳は、ぼんやりと宙を見つめている。記憶が、薄れていく――。このままでは、彼女は、そして自分たちの繋がりも、失われてしまう。海斗は、汐里を救うために、握りしめた鍵に、全身全霊の想いを込めた。

「汐里、僕だ!海斗だよ!」

海斗は、汐里の手を強く握りしめた。その手から伝わる温もりを、彼女に感じてほしい。祖母が、そして自分自身が、この世界で紡いできた記憶を、彼女に伝えたい。

「僕のそばにいる君を、忘れない!祖母さんが、君と、あの星屑の海を目指したんだ!僕も…僕も、君と一緒に!」

その瞬間、海斗の手に握られた鍵が、天を突くような眩い光を放った。記憶の断片が、まるで奔流のように、鮮明に、そして力強く蘇る。それは、祖母が汐里の手を取り、希望に満ちた笑顔で別れを告げる、切なくも美しい光景だった。祖母の背中には、帆を張った大船が、遥かな水平線へと向かっていく。

汐里のペンダントに、再び柔らかな光が灯った。彼女の瞳が、ゆっくりと、しかし確かな意志を持って、海斗を見つめ返した。

「海斗…」

二人の間には、失われた遠い世界と、今ここにある現実を繋ぐ、確かな絆が生まれていた。港を渡る風が、まるで二人の未来を祝福するように、優しく吹き抜けていった。星屑の海は、まだ見ぬ物語を、二人の中に静かに灯し続けていた。

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