重力のパスタ

仕事の失敗。それは佐伯陽一の心を、鉛のように重く沈ませていた。会社を早退し、古びた一軒家の自室に引きこもってから数日。カーテンは閉め切られ、部屋には淀んだ空気が漂っている。夕食は、数日前に買っておいたコンビニの冷たいパスタ。フォークを手に取り、麺をすくい上げる。どこか虚ろな目で、それを口に運んだ、その瞬間だった。

奇妙な感覚が、陽一の全身を貫いた。フォークから、麺が、ゆっくりと、まるで意思を持ったかのように、浮き上がっていく。指先から滑り落ちるのではなく、重力に抗うように、すうっと空中に漂いだしたのだ。陽一は息を呑んだ。疲労か。それとも、衰弱のせいか。まさか。

だが、その現象は、その夜を境に、毎晩のように繰り返された。パスタを口にするたび、麺はフォークから離れ、空中に静止する。最初は気のせいだ、と自分に言い聞かせようとした。しかし、ある夜、パスタを食べていると、フォークそのものが、ほんのわずかに、浮き上がったのだ。それだけではない。部屋の隅に置かれた古びた椅子。床に転がる雑誌。どれもこれも、ごくわずかに、しかし確かに、床から離れかけているように見えた。床に視線を落とすと、壁紙に、まるで霜が降りたかのような、細く白い奇妙な模様が浮かび上がっている。それは、次第に複雑な、しかしどこか歪な形へと変化していくように見えた。

恐怖。それは当然の感情だった。しかし、それと同時に、奇妙な好奇心も芽生え始めていた。この異常な現象から、陽一は目が離せなくなっていた。毎晩、彼は冷蔵庫から冷たいパスタを取り出し、それを静かに見つめた。パスタは、まるで儀式のように、彼の唯一の食事となった。そして、いつしか、それは彼の希望でもあった。あるいは、依存だったのかもしれない。

ある晩、いつものようにパスタを食べていると、どこからともなく、囁くような声が聞こえてきた。「もっと…」。それは、陽一の耳元で直接語りかけられたかのようだった。声は性別も年齢も判別できず、ただ無機質に、しかし確かに、陽一にパスタを食べることを促していた。まるで、飢えた獣に餌を与えるかのように。

陽一は、声に導かれるように、パスタを口に運んだ。それまで感じたことのない、妙な浮遊感が全身を包み込んだ。体が軽くなる。意識が、遠のいていく。部屋の天井が、ひどく遠く感じられる。壁に浮かび上がった霜模様は、もはや単なる模様ではなかった。それは、複雑怪奇な幾何学模様へと変化し、まるで意志を持っているかのように蠢いている。声はさらに大きくなり、耳元で囁く。「重力から、解放される…」。陽一は、その言葉に抗えない自分に気づいた。パスタに、そしてこの異様な現象に、自分は、徐々に、支配されていく。逃れることはできないのだと、悟った。

もはや、陽一はパスタなしではいられなくなっていた。床に転がったパスタを、必死に、まるで獣のように口に運ぶ。彼の体は、完全に宙に浮いていた。部屋の天井に、へばりつくようにして、顔だけがこちらを向いている。いや、顔というよりは、もはや人間とは呼べない、歪んだ何かの面影。壁には、霜などではない。無数の、奇妙な顔が、こちらを凝視している。声は、満足げに、低く笑った。陽一の意識は、完全に、闇に沈んでいった。永遠の、静寂の中へ。

部屋のドアは、固く閉ざされたままだ。窓の外は、いつの間にか、一面の霜が降り積もっていた。佐伯陽一という人間が、この世から忽然と姿を消したことなど、誰一人として気づくことはないだろう。ただ、静寂に包まれた部屋の天井には、もはや人間とは呼べない何かが、虚ろな瞳で、ただ、こちらを見つめているかのようだった。日常の裏に潜む、理解不能な恐怖。それに囚われ、変容させられた人間の末路。それは、陽一だけの物語ではないのかもしれない。夜空に浮かぶ月だけが、その全てを知っているかのように、静かに輝いていた。

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