繋がらないWi-Fiと、繋がった心

オフィスの蛍光灯が、佐藤恵の顔を静かに照らしていた。入社三年目。真面目で控えめな性格が災いしたのか、周りの空気を読みすぎてしまう恵は、今日もデスクで小さくため息をついた。頼りにしている田中先輩の様子が、最近どうもおかしい。席を立つ頻度が増え、時折、何かに苛立つように眉根を寄せている。それだけならまだしも、同僚の山田さんから、田中先輩が誰かに「暴行」した、という衝撃的な噂を耳にしてしまった。

「え…? 田中先輩が、ですか?」

恵は思わず声を上ずらせた。田中先輩は、口数は少ないけれど、仕事はできる、頼りになる先輩だ。そんな彼が、暴行? 信じがたい。でも、最近の彼の不調と、この噂が妙に結びついてしまう。恵の心は、不安でざわめいた。そんな時、いつもなら快適に使えるはずのオフィスのWi-Fiが、プツリと途切れた。何度か接続し直しても、状態は変わらない。「あ…」恵が落胆の声を漏らすと、ちょうど田中先輩が通りかかった。彼は、ルーターらしきものを手に、忙しなく操作している。その横顔は、何かを隠しているようで、恵の疑念は深まるばかりだった。

恵は、田中先輩が「暴行」したというのは、もしかしたら、Wi-Fiの遅延が原因で、クライアントとの大事なオンライン会議が中断されてしまったことへの怒りなのではないか、と推測した。あの時、田中先輩は相当なプレッシャーを抱えていたはずだ。でも、それが本当なのか、そしてなぜ彼はあんなにもイライラしていたのか。直接聞く勇気は、どうしても湧いてこなかった。噂は、尾ひれがついて社内に静かに広まっていった。田中先輩は、まるで透明人間になったかのように、周囲から孤立していくように見えた。

もう、このままではいけない。恵は、意を決して田中先輩のデスクに向かった。

「あの、田中先輩、少しお話してもよろしいでしょうか?」

不意に話しかけられ、田中先輩は少し驚いた顔をした。

「なんだ、佐藤」

「あの…最近、お忙しそうですが、何か…もし、何かお困りのことがあれば、私でよければ…」

恵の言葉に、田中先輩はしばらく沈黙した。そして、ぽつりぽつりと、堰を切ったように話し始めた。

「…Wi-Fiの遅延で、プロジェクトが、危なかったんだ。クライアントとの会議が、めちゃくちゃになって…」

彼は、あの日の出来事、そしてその責任を、自分一人で背負おうとしていたことを打ち明けた。弱さを人に見せるのが、怖かったのだと。

「だから、暴行なんて…そんなこと、してないよ」

恵は、目から鱗が落ちる思いだった。田中先輩が「暴行」したのではなく、プロジェクトの失敗という「暴行」されそうになっていた、そしてそれに怒りを感じていたのだ。恵は、彼が誤解されていたことを知り、胸が締め付けられるような思いがした。

「先輩…」恵は、田中先輩の目を見て、まっすぐに言った。「先輩は、一人で抱え込まなくていいんです。それに、Wi-Fiの遅延は、私達みんなの問題です。部署全体で、解決策を考えましょう」

恵の言葉は、田中先輩の心にまっすぐに届いたようだった。彼の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。その日から、オフィスのWi-Fi環境は、部署全体で改善に取り組むことになった。会議はスムーズに進むようになり、以前のようなトラブルはなくなった。噂は自然と消え、恵と田中先輩の間には、言葉にはできない、確かな信頼関係が生まれていた。恵は、見えない繋がりや、些細な誤解が、人をどれほど孤独にしてしまうのか、そして、それを解きほぐすことの、なんと温かいことなのかを、静かに噛み締めていた。ほろ苦くも、どこか温かい余韻が、オフィスに満ちていた。

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