電子の朝

毎朝、同じ時間に自宅を出て、馴染みのコースを辿る。今日もまた、穏やかな朝日が、近未来都市のガラス張りのビル群を優しく照らし出していた。アキラは、この街の住人として、記憶の最適化と共有が当たり前の社会に疑問を抱くことなく生きていた。システムは、日々の経験や感情、さらには過去の記憶までも、効率的に管理し、必要に応じて他者と共有することで、社会全体の調和と生産性を高めている。それは、誰もが疑わない、揺るぎない現実だった。

しかし、その日の朝、いつもの散歩道で、アキラはふと足を止めた。見慣れたはずの街並みの中に、異質な存在感を放つ古いカフェがあった。システムには一切記録されていない、古びた看板。そこで、不意に、鮮明な記憶の断片が蘇った。それは、愛犬と散歩する自分の姿。嬉しそうに尻尾を振る犬。しかし、システム上のアキラの記録には、犬を飼った経験は一切存在しない。彼は、ただの幻覚か、システムのエラーか、と首を傾げた。

その日から、アキラの心には、得体の知れない「ノイズ」が混じり始めた。日常の些細な出来事や、人との会話の端々に、システムに存在しないはずの記憶の断片が、まるで古いフィルムのようにフラッシュバックする。ある日、彼は意を決して、職場の同僚であるエリカに相談を持ちかけた。 「エリカ、俺の記憶に、少し…違和感があって。」 「え、アキラさん、どうしたんですか?システムエラーとか、ありえないっしょ。超レアケースだし!」 エリカは、いつものように早口で、流行りの言葉を交えながら、あっけらかんと笑った。「きっと、寝不足とか、疲れてるんですよー。たまには、システム推奨の、リフレッシュプログラムでも試したらどうですか?」

エリカの言葉に、アキラはそれ以上何も言えなかった。だが、彼女の言葉で、さらに確信を深めることになった。システムへの絶対的な信頼。それが、この社会の常識なのだ。アキラは、電子書籍ストアを漫然と眺めていた。そこで偶然、目に留まったのは、古い作家が綴った小説の一節だった。そこには、彼が感じている、あの胸の奥の、説明のしようのない違和感、失われた何かへの郷愁が、まるで自分の言葉のように綴られていた。

アキラは、自宅に戻ると、すぐにシステムにアクセスし、自身の過去の記憶データを詳細に調査し始めた。何時間にも及ぶ作業の末、彼は衝撃的な事実を発見する。本来、彼の人生にとってかけがえのないはずの、「家族との温かい記憶」や、「個人的な感情の記録」が、システムによって「最適化」され、あるいは「不要なデータ」として削除、統合されていたのだ。散歩中に感じたあの違和感、カフェの前で蘇った記憶――それらは、システムによって消し去られようとしていた、彼自身の、紛れもない記憶の断片だったのだ。

アキラは、システムからログアウトした。画面の明かりが消えると、部屋は静寂に包まれた。彼は、服を着替え、再び街へと繰り出した。朝日が昇り、活気を取り戻し始めた街並み。しかし、アキラの心には、深い虚無感が広がっていた。システムによって「最適化」され、感情や個性を削ぎ落とされた自分。それは、人間と呼べるのだろうか。電子書籍で読んだ小説の主人公が、同じような虚無感を抱え、失われた過去を探し求めていたことを思い出す。彼の朝の散歩は、もはや単なる「習慣」ではなかった。それは、システムによって奪われ、見えなくされた、本当の自分を探し出すための、孤独で、そして、虚しい旅路となっていた。朝日が、冷たく彼の顔を照らしていた。

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