休日の呪い
幼い頃から、佐藤恵は母に聞かされてきた奇妙な「呪い」を信じて疑わなかった。「休日に新しいことを始めると、その週はずっと不幸になる」。だから、恵の休日はいつも同じだった。古びたアパートの一室で、窓の外の喧騒から隔絶されるように、静かに本を読む。それが、彼女にとっての「呪い」から身を守るための、唯一の儀式だった。退屈といえば退屈だが、それなりに平穏な日々は、呪いの発動を恐れる恵にとって、何よりも大切なものだった。
ある晴れた土曜日の午後。恵は窓辺に座り、埃の舞う陽光をぼんやりと眺めていた。外からは、子供たちの楽しそうな声が微かに届く。近所の公園で、彼らはどんな新しい遊びを見つけているのだろうか。ふと、恵の胸に小さな衝動が芽生えた。ずっと気になっていた、駅前のカフェの新作ケーキ。あるいは、本棚に積まれたまま、まだページすら開いていない、憧れの作家の小説。新しい世界への扉が、ほんの少しだけ、開いた気がした。
だが、すぐに母の言葉が脳裏をよぎった。「新しいことをすると、不幸になる」。恵は小さく首を振ると、そっと窓から目を離した。衝動は、すぐに日常の澱のように沈んでいく。今日もまた、いつものように、静かに本をめくる。それが、呪いから身を守るための、彼女なりの賢明な選択なのだと、自分に言い聞かせた。
その夜、恵はスマートフォンの画面に、幼馴染の田中亮の投稿を表示させた。亮は、週末になるといつも、趣味の写真をアップしている。今日は、最近ハマっているという、古いフィルムカメラで撮ったというモノクロームの街並み。楽しそうに笑う亮の顔が、写真の端に写っている。亮は、そんな「呪い」など、微塵も気にせず、休日を謳歌しているように見えた。
「いいね」のボタンに、恵の指が吸い寄せられる。コメントもしたい。でも、指が止まった。もし、自分も亮のように、休日を自由に過ごしたら、あの「呪い」が発動するのではないか。そして、亮との友情に、何かひびが入ってしまうのではないか。恵の心は、未知への憧れと、呪いへの恐怖、そして失うことへの恐れの間で、激しく揺れ動いていた。
「お母さん」
次の日の朝、恵は意を決して、母親に話しかけた。
「あの、呪いのことなんだけど……」
母親は、いつもと少し違う、困ったような、そしてどこか寂しそうな顔で恵を見た。
「あの呪いはね、恵。お母さんが、寂しかったから、あなたにそばにいてほしくて、あなたを縛り付けていたようなものだったのよ」
母の言葉は、恵の心を静かに揺さぶった。愛情が故の、束縛。呪いだと信じ込んでいたものは、母なりの愛情表現だったのかもしれない。そして、その呪いを信じることで、どれだけ自分の可能性を、自ら閉ざしてきたのだろう。恵は、母の言葉に、そして自分自身の過去に、静かに衝撃を受けていた。
次の休日、恵は部屋の窓を開け放った。風が心地よく吹き抜けていく。
「亮、今度、あのカフェに行ってみない?」
スマートフォンの画面に、亮からの快諾の返信が届く。「もちろん!楽しみにしてるよ」。その言葉に、恵の胸は温かいもので満たされていくのを感じた。
そして、恵は本棚から、ずっと読みたかった小説を手に取った。埃を払い、そっと最初のページを開く。
「それは、呪いから解放された、ほろ苦くも温かい休日の始まりだった。」
恵は、過去の「呪い」に、静かに感謝すらするかもしれないと思った。なぜなら、それは自分自身と向き合い、本当の自分を見つけるきっかけを与えてくれたのだから。呪いは、解き放つことも、受け継ぐこともできる。恵が選んだのは、呪いを解き放ち、自分自身の意志で休日を彩ることだった。それは、過去の自分への決別であり、未来への希望の光。切なさの中に、確かな温かさと、明日への前向きな気持ちが、静かに灯っていた。