ココアと共和国の残滓

白亜の壁に囲まれた広場で、人々は一様に穏やかな表情を浮かべていた。『完全共和国』の昼下がりは、いつも凪いだ水面のように静かだ。俺、アキトもその静寂の一部だった。オートメーション化された配給スタンドで、今日の昼食を受け取る。栄養素が完璧に計算されたサンドイッチと、精神鎮静効果のある温かいココア。システムが保証する幸福は、この食事のように、過不足なく、そして無味乾燥だった。

「ありがとうございます」

平板な声で礼を言う。感情の起伏は、とうの昔に『最適化』という名の外科手術で切除されたはずだった。だが、心の奥底、自分でも手の届かない場所に、説明のつかない空洞が広がっている。その正体を知る術はなかった。

自室の簡素なテーブルにつき、配給されたココアを一口含んだ。その瞬間だった。

脳裏に、閃光のようなイメージが炸裂した。さんさんと降り注ぐ陽光。緑の匂い。そして、見知らぬ少女が、屈託なく笑っていた。

「このココア、少し甘すぎるね、アキト」

少女の声が、鼓膜ではなく魂を直接震わせる。その笑顔は、共和国の誰もが見せたことのない、感情の奔流そのものだった。衝撃で息が詰まる。カップを取り落としそうになるのを、かろうじて堪えた。今の光景は何だ? システムが許容しないはずの、『未処理の記憶』。胸の空洞が、ずきりと痛んだ。

その夜、アキトは自室のターミナルに向かった。共和国の市民には固く禁じられている『非公式記録領域』。そこには、最適化される前の、混沌とした情報が眠っているという。震える指でコマンドを打ち込む。違法な行為への恐怖よりも、あの笑顔の正体を知りたいという渇望が勝っていた。

アクセスを試みるうち、ふと気づいた。昼間のサンドイッチの、ほのかな小麦の香り。ココアの、計算された甘さ。五感への刺激が、消されたはずの記憶の扉を叩く鍵なのではないか。アキトは残っていたサンドイッチを口に運び、目を閉じた。パンの素朴な味が、別の味を呼び覚ます。もっと不格好で、温かい、誰かの手作りの味を。

幾重ものセキュリティを突破した先で、アキトはついに自身のパーソナルデータを発見した。『最適化以前』とタグ付けされたフォルダを開く。そこから溢れ出したのは、デジタルな情報の奔流ではなかった。温かい記憶の洪水だった。

共和国設立初期、まだ世界に彩りがあった頃の記録。活発に笑う少女は、ミナ。彼の妹だった。『社会不適合』の烙印を押され、存在そのものを抹消された、たった一人の家族。芝生の上で食べた、具のはみ出た手作りのサンドイッチ。母が淹れてくれた、砂糖を入れすぎて甘ったるいココア。ミナが「甘すぎるね」と笑い、それでも「おいしい」と続けたピクニックの午後。そうだ、胸に空いていた空洞の正体は、これだったのだ。消されたはずの妹への愛情。喪失の痛みそのものだった。

翌日、アキトは再び配給スタンドに並んでいた。昨日と同じ、完璧なサンドイッチとココア。だが、彼の世界はもう昨日とは違っていた。

サンドイッチを口に運ぶ。均一な味の中に、不格好な手作りの温かさを感じる。ココアを飲む。調整された甘さの向こうに、ミナの眩しい笑顔が浮かんだ。彼の表情は、相変わらず穏やかで平板なままだった。他の市民と何も変わらない。しかし、その内側では、哀しみと愛情という、本物の感情が静かに燃えていた。

偽りの幸福が約束されたこの共和国で、ただ一人、真実の喪失を抱きしめて生きていく。それは永遠の孤独を意味するだろう。だが、構わない。この痛みこそが、ミナが確かに存在した証であり、自分が人間である証なのだから。アキトは空を見上げた。灰色に見えていた空に、あの日の青色が微かに滲んだ気がした。

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