シェイク・オブ・ライフ

「まったく、なんで俺がこんな店に連れてこられなきゃいけないんすかね」

田中一郎は、背筋を伸ばし、できるだけ背広のシワを増やさないように座った。目の前には、眩いばかりのグラスが並び、そのどれもが桁外れの値段を刻んでいる。近未来の東京、ネオンが瞬く夜景を見下ろす高級ワインバー。普段なら、一生縁のない場所だ。

「田中、君もそろそろ『デキる男』の仲間入りをしてもらわねば困るのだよ」

上司の佐藤部長は、自信満々な笑みを浮かべ、ソムリエにメニューを渡した。一郎は、いつもの「生ビール、大ジョッキ」とは違う、芳醇な香りが漂うグラスを前に、緊張と興奮で胃がキリキリしていた。

「で、部長、今日は一体どういったご用件で?」

「まあ、そう急かすな。まずはこれを」

佐藤部長は、カウンターにいた謎のバーテンダーに合図を送った。バーテンダーは、無言で銀色のシェイカーを手に取り、カランコロンと軽快な音を立て始めた。出てきたのは、キラキラと輝く、まるで宝石のような液体が入ったグラスだった。

「これは『ナノマシン・シェイク』。老化防止、記憶力増強、さらには肌のハリまで、あらゆる効果が期待できる最先端ドリンクだ」

「な、ナノマシンっすか!?そんなもの、体に…」

一郎が言い淀むと、部長は鼻で笑った。

「心配無用だ。このバーテンダーが特別に調合したものだからな。さあ、君も一杯」

部長は、一郎のグラスにシェイクを注いだ。一郎は、部長の強引さに負け、意を決して一口飲んだ。甘酸っぱいような、しかしどこか人工的な味が口の中に広がった。

その瞬間、一郎の体に異変が起きた。堰を切ったように言葉が溢れ出す。普段は小声でしか話さないくせに、今や大声で部長の悪口、いや、会社の機密情報まで、ペラペラと喋りまくっている。

「部長なんて、いつも経費で飲み食いして、俺には『節約しろ』とか言ってるんすよ!あいつ、実はあのプロジェクトだって…」

「田中!何を言っているんだ!」

佐藤部長の顔がみるみるうちに赤くなった。しかし、一郎は止まらない。まるで、脳のブレーキが壊れてしまったようだ。バーテンダーは、そんな二人を静かに、しかし楽しそうに眺めていた。

「うわっ!なんだこれ!?体が、体が軽くなる!」

突然、一郎の悲鳴が響いた。彼の顔色がみるみるうちに若返っていく。肌はツルツルになり、髪には黒い艶が戻ってきた。しかし、それは外見だけではなかった。彼の話し方、仕草、そして思考までもが、まるで幼児のように退行していく。

「ねぇ、これ、なあに?」

一郎は、キラキラ光るグラスを指差しながら、無邪気に笑った。

「な…なんだこれは!バーテンダー!どうにかしろ!」

佐藤部長は、パニックに陥り、バーテンダーに詰め寄った。

バーテンダーは、ゆっくりとグラスを磨きながら、静かに答えた。

「ナノマシンは、持ち主の欲望を増幅させるだけですよ」

「欲望だって?俺はただ、若返りたかっただけだ!」

「ですが、あのワイングラスは、ナノマシンに侵されず、そのままの味でしたね」

バーテンダーは、一郎が一口も飲んでいない、高級ワインが入ったグラスを指差した。一郎は、もう完全に幼児化し、床に這いつくばって「ママ…」と呟いている。佐藤部長は、顔面蒼白で、ただ立ち尽くすしかなかった。「こんなはずじゃなかった…!」

結局、最新技術も、人間の欲と愚かさの前では無力だったのだ。

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