経理部ドローン
経理部の佐藤恵子は、この殺風景な部屋で数年を過ごしてきた。日々のルーチンワークは正確無比。課長である田中浩二は、そんな恵子を「うちの経理は恵子がいるから安心だ」と、いつも穏やかに、しかしどこか他人事のように言った。その言葉は恵子の胸に確かな満足感をもたらしたが、同時に、もっと、もっと強烈に認められたい、特別視されたいという、乾いた渇望を掻き立ててもいた。
最近、会社は経費削減の波に洗われ、監視カメラの代わりに小型ドローンを導入するという決定を下した。ドローンの操作と管理は、無口でマイペースなシステムエンジニア、山田淳の担当となった。ところが、なぜか恵子にも、その操作方法の習得が命じられたのだ。「経理のデータと連動させる部分もあるからさ」と山田は淡々と説明したが、恵子の胸は、これは自分の仕事ぶりをさらに光らせる絶好の機会だと、密かに躍っていた。
ドローンは、本来、倉庫や駐車場といった、人の出入りが激しい場所を監視する目的で導入されたはずだった。しかし、山田は「テスト飛行」と称し、時折、オフィス内を不自然に低空で飛行させるようになった。その飛行ルートが、なぜか恵子のデスクの前を何度も、執拗なまでに通過する。恵子が山田に理由を尋ねても、「ただの気まぐれですよ。電波状況の確認」と、その無表情な顔からは何も読み取れなかった。
ドローンが、まるで自分のPC画面を覗き込んでいるかのように感じられ、恵子の胸はざわついた。特に、田中課長に提出する報告書を作成している時や、自身の給与明細を眺めている時に、その小さな機械音とともにドローンが近づいてくる。山田は、自分の仕事ぶりを監視しているのだろうか。それとも、何かを探っているのだろうか。恵子の疑念は、水滴が岩を穿つように、ゆっくりと、しかし確実に深まっていった。それは、彼女の承認欲求が否定されることへの、根源的な恐怖でもあった。
そんなある日、恵子は経費の精算に、若干の、しかし無視できない不明瞭な点があることに気づいた。それは、ドローン購入費や維持費とは直接関係のない、しかし、会社の帳簿上、無視できない金額だった。田中課長に確認しても、「ああ、それはちょっとした帳尻合わせだよ。経費の都合でね」と、いつものように軽くあしらわれた。しかし、恵子の疑念は晴れるどころか、さらに深まるばかりだった。山田がドローンを使って、会社の機密情報や経理データを不正に抜き取り、何かを企んでいるのではないか――。以前、山田が「セキュリティチェック」と称して、恵子のPCにアクセスしたことがあったのを思い出した。その時、何かを仕掛けられたのではないか、という恐怖が彼女を襲った。
恵子は、自分のPCに不正アクセスされた形跡がないか、山田が仕掛けたマルウェアがないかを調べるため、夜遅くまで残業するようになった。そして、その過程で、彼女自身、過去に軽微な経費の私的流用、例えば、文具代を少し多めに計上するなど、誰にも言えない小さな「過ち」を犯していたことを思い出し、それが山田に知られているのではないか、という不安に駆られた。
夜も更け、オフィスに一人残された恵子の耳に、微かなプロペラ音が響いた。山田が、またドローンを飛ばしているのだ。その小さな影は、恵子のデスクのすぐ近くにホバリングし、そのカメラは、恵子のPC画面を捉えていた。恵子は、山田が自分のPCから不正な情報を盗み取ろうとしている、あるいは、自分の過去の小さな不正行為の証拠を掴もうとしているのだと確信し、全身に恐怖が走った。
衝動的に、恵子は山田のPCに不正アクセスし、証拠を消去しようと試みた。しかし、それはあまりにも愚かな行動だった。山田は、恵子の行動を予測していたかのように、あっさりと彼女を取り押さえた。「君のPC、覗かせてもらったよ。君が思っているより、ずっと面白いものが見つかった」山田は、いつもの無表情さを破り、不気味な笑みを浮かべた。恵子のPCには、彼女が過去に行った軽微な不正行為のログが、山田によって巧妙に記録・増幅されていた。山田は、それを元に恵子を脅迫し、さらに大きな不正行為に加担させようとしていたのだ。
翌日、佐藤恵子は会社に来なかった。田中課長が彼女の自宅を訪ねると、部屋はもぬけの殻で、彼女の姿はどこにもなかった。後日、会社には匿名で告発状が届いた。そこには、恵子のPCから抜き取られたと思われる、彼女の過去の軽微な不正行為の証拠データが添付されていた。それと同時に、恵子の口座から多額の不正送金があったことが発覚した。しかし、それは恵子自身が行ったものではなく、山田が恵子のPCから盗み出した情報と、彼女の口座情報を利用して、彼女の罪をさらに大きく見せかけるように仕組んだものだった。山田は、恵子のPCから彼女の「不正行為の証拠」を盗み出し、それを匿名で告発することで、彼女を社会から抹殺したのだ。
恵子は、自らの承認欲求と、それを巧みに利用した山田の冷酷な罠によって、すべてを失い、跡形もなく消え去った。オフィスを静かに飛び回るドローンは、まるで新たな標的を探しているかのように、不気味な光を放っていた。田中課長は、恵子の不正行為の告発と、それに伴う会社の混乱を静観し、ただ自身の保身を図るのみであった。