湯気と砂糖と、あの夜の海
秋の夜、潮の香りが肌にまとわりつく。佐和子は、亡き夫が好んで通った海辺の銭湯へと向かっていた。古びた暖簾をくぐると、むせ返るような湯気が立ち込め、夫との懐かしい記憶がその湯気の中に溶け込んでいるように感じられた。夫がこの世を去ったのは、二人が定年を迎え、これからゆっくりと人生を共に歩もうと誓い合った矢先のことだった。熱い湯船に身を沈めながら、佐和子の記憶は数年前のある日へと飛ぶ。夫が、特別な日でもないのに、どこか照れたような顔で、甘さ控えめのチョコレートケーキを買ってきた。「これ、お前が好きそうだと思って」と、そう言って微笑んだ。あの、ささやかな贈り物のことが、ふと胸をよぎった。
銭湯からの帰り道、佐和子はいつものように、隣の静かなバーに立ち寄った。カウンターの定位置に座ると、マスターは黙って佐和子の好きなジン・トニックを置く。グラスを手に取った佐和子は、ぽつりと呟いた。「マスター、あの時のチョコレートケーキ、また食べたいな」。マスターはグラスを磨く手をぴたりと止め、数秒間、佐和子の顔をじっと見つめた。そして、いつものように低く落ち着いた声で応じた。「そうですね、あのケーキ、美味しかったですね」。しかし、その声には、佐和子が期待していたような、夫との思い出を共有する温かさがなかった。夫の親友でありながら、マスターはなぜか「あのケーキ」について深く語ろうとしない。その不可解な距離感に、佐和子の胸の奥で、微かな、しかし確かな違和感が静かに広がっていった。
数日後、佐和子は夫の遺品を整理していた。分厚いアルバムの隙間から、夫が大切にしていたらしい、古びた手帳が滑り落ちた。ページをめくると、夫が亡くなる数日前に書かれたと思われる、走り書きのようなメモがあった。「佐和子に、伝えたいことがある。あのケーキの本当の理由を。俺が、何も言えなかったこと。」佐和子の胸に、形容しがたい騒ぎが起こった。夫が「あのケーキ」に込めた意味とは、一体何だったのだろうか。それは、夫が抱えていた、自分には決して打ち明けられなかった、何かと関係があるのだろうか。佐和子は、夫の言葉の奥に隠された真実を探ろうと、静かに決意を固めた。
佐和子は再び、あのバーを訪れた。カウンターに座り、震える手で手帳のメモをマスターに見せた。「マスター、このケーキのこと、夫は…」佐和子が言葉を紡ぎかけると、マスターは静かにグラスを置き、佐和子の目をまっすぐに見つめて、語り始めた。「奥さん、あのケーキはね、旦那さんが、奥さんに『ありがとう』って言いたかったから、だったんですよ。あの時、奥さんは仕事で大きなプロジェクトを抱えて、毎日遅くまで、本当に大変だった。旦那さんは、何もしてあげられなくて、ただ心配していた。だから、せめて甘いものでも、って、あのケーキを買いに行ったんです。ケーキ屋で、奥さんの好きなチョコレートケーキを、すごく悩んで選んでいましたよ。奥さんに、少しでも元気を出してほしかった、それだけだったんです」。マスターは、夫が佐和子への感謝と、自分には何もしてあげられない無力感の間で、どれほど揺れ動いていたかを、静かに、しかし丁寧に語った。夫は、佐和子に心配をかけまいと、ケーキの本当の理由を、最後まで黙っていたのだ。マスターもまた、夫のそんな不器用な優しさと、佐和子への深い愛情を知っていたからこそ、多くを語らなかったのだった。
マスターの話を聞きながら、佐和子の目から静かに涙が溢れた。それは、夫の不器用な優しさへの、そしてマスターの静かな配慮への、感謝の涙だった。夫が自分をどれほど大切に思っていたのか、そしてマスターがその思いをどれほど大切に守ってくれていたのかを知り、佐和子の心は、温かいもので満たされていく。バーを出ると、夜空には雲間から月が顔を覗かせ、海面に銀色の光の筋を落としていた。佐和子は、夫がくれた「あのケーキ」の甘さと、マスターの言葉の温かさを胸に、亡き夫との思い出を静かに抱きしめながら、少しだけ前を向いて歩き出す。銭湯の湯気、バーの静けさ、そしてケーキの甘さが、彼女の心に確かな余韻を残していた。