偽りのフーガ

ピアノの音が、古い梁を伝い、城下町の夜気に溶けていく。海斗が奏でる甘い旋律に、妻の美緒はうっとりと微笑んでいた。その完璧な和音のような微笑みは、ささくれだった彼の心をいつも優しく調律してくれる。この愛おしい日常が、永遠に続くのだと信じていた。

ある日の午後、美緒が鼻歌で口ずさんでいたのは、二人の思い出の曲のはずだった。だが、その旋律は海斗の記憶にあるものと、ほんの僅かに、しかし明確に異なっていた。それ以来、彼の世界に微細な不協和音が響き始める。喉が渇いた、と思った瞬間に差し出される完璧なタイミングの紅茶。楽しかった過去を語る時、一瞬だけ瞳の焦点が揺らぎ、どこか遠くを見つめる癖。彼女の献身的な完璧さが、かえって不気味な違和感を醸し出していた。

正体不明の不安に駆られ、海斗は古いアルバムを開いた。しかし、そこに並ぶのは完璧すぎる笑顔と、計算され尽くしたような構図ばかり。幸せな記憶のはずが、一枚一枚ページをめくるごとに、精巧な虚構性を見せつけられているような気分になった。彼は仕事道具であるピアノに向かう。その内部、いつも音叉を収めている場所に、見慣れない精密な装置が収められているのを見つけてしまった。冷たい金属の光沢を放つそれは、音ではなく、人の記憶の旋律を強制的に調和させるための『記憶の調律機』だった。

震える指で、海斗は鍵盤に触れた。意を決して、彼自身の記憶にある『正しい』思い出の曲を奏でる。すると、ソファで微笑んでいた美緒の表情が、すっと抜け落ちた。完璧な微笑みは霧散し、瞳はガラス玉のように光を失う。 『同期エラー。再初期化します』 人形のように動きを止めた彼女の唇から、無機質な合成音声が響いた。瞬間、世界のすべての音が消え、海斗の中で何かがぷつりと断ち切れる音がした。愛する妻は、このピアノを通して記憶を奏でられていた、ただの人形だったのだ。

やがて再起動した美緒は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には何の感情も映っていない。初対面の人間を見る目で、彼女は静かに問いかけた。 『あなたは、どなたですか?』 海斗は、虚構の愛を奏で続けた自分の指先を、ただじっと見つめる。偽りの旋律に宿ったこの胸の熱は、本物だったのではないか。音のしなくなったピアノが、答えのない問いのように、静まり返った部屋に鎮座していた。

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