奈良の庭師と消失した万葉集
奈良の古民家を改装したガーデンカフェ。佐伯譲は、朝露に濡れた緑を静かに撫でていた。寡黙な庭師である譲の指先は、植物の鼓動さえ感じ取るかのようだ。カフェのオーナー、藤原薫は、店の奥にある蔵の整理中に、興奮した様子で譲を呼んだ。
「佐伯さん、これを見てください!」
藤原が手にしていたのは、羊皮紙のような質感の古びた冊子だった。奈良時代に、伝説の庭師と謳われた大伴睦が編纂したという植物図鑑だ。その精密な植物の描写に、譲は思わず息を呑んだ。しかし、藤原の表情は晴れない。
「この図鑑、巻末に睦の『万葉集』への感慨が記されたページがあったはずなのですが、綺麗に剥がされてしまっているんです」
藤原は、まるで事件の捜査官のように、図鑑を指差した。譲が図鑑を受け取ろうとしたその時、ページの間から、一枚の栞が音もなく滑り落ちた。
そこには、かすれた筆跡で「あしひきの山鳥の…」と書かれていた。
「まさか…」
藤原は、剥がされたページに、まるで親友の裏切りにでも遭ったかのような「憤り」を感じていた。睦には、図鑑の完成を祝う宴で、ある詩人に激怒したという逸話が残されていたのだ。その詩人が誰で、なぜ睦が怒ったのか。藤原はその謎を解き明かそうと、古文書の海に潜り始めた。
譲は、図鑑に記された栽培方法を庭で再現する実験を始めた。ある特定の条件下で、その植物が独特の、しかし微かな芳香を放つことに気づいた。それは、まるで記憶の片隅をくすぐるような、懐かしい香りだった。
藤原は、当時の記録を紐解くうちに、睦が怒った相手は、睦の庭に咲く珍しい花を「自分のものだ」と偽って詩にした詩人だと突き止めた。しかし、その詩人の名前も、詩の内容も、決定的な手掛かりは掴めない。
一方、譲は、図鑑に記された特殊な栽培方法で育てた植物が、より強い芳香を放ち始めたことに気づいた。それは、奈良時代に香料として使われたとされる希少なものだった。さらに、睦が残したとされる庭の設計図に、植物の配置と香りの配合を示す、ある種の暗号が隠されていることを発見した。それは、まるで香りの譜面のようだった。
藤原は、残されたわずかな手がかりから、ある仮説を立てた。詩人は、睦の親友であり、睦の怒りを鎮めるために、自らの罪を償うべく、睦の愛した万葉集の一節を隠したのではないか、と。親友は、睦の心を癒すために、植物でその歌を表現しようとしたのかもしれない。
譲は、庭の植物から発せられる匂いが、栞に書かれた万葉集の歌「あしひきの山鳥の…」の情景と酷似していることに気づいた。山鳥が鳴く、朝もやのかかった山の情景。植物の生育条件と、図鑑に隠された暗号。それらが、この歌の解読キーになっていると確信した。
譲は、図鑑に記された「芳香を放つ植物」の栽培方法が、実は「特定の香りを再現するためのレシピ」であったことを突き止めた。そして、その香りは、万葉集の歌を、聴く者の心に呼び覚ますための仕掛けだったのだ。睦が激怒したのは、親友が自身の庭の植物を詩にした際、その香りを正確に再現できなかったことへの「憤り」だった。親友は、睦の心をなだめるために、睦が愛した万葉集の歌を連想させる香りを、丹念に植物で再現し、その証として、歌のページを剥がして(万葉集に載る歌のページであると匂わせるように)隠したのだ。睦の「憤り」は、植物への深い愛情と、親友への複雑な感情の表れだった。
譲は、植物を通して、時代を超えて受け継がれる人々の想いに触れていた。睦の親友への深い愛情と、植物への揺るぎない敬意。それらは、静かに、しかし確かに、譲の心に響いていた。