防腐処理済みの朝

朝の光が、磨き上げられたテーブルの縁をなぞり、ナイフの刃の上を滑り落ちていく。完璧な円を描く純白の皿。その衛星であるかのように、フォークとナイフが寸分の狂いもなく配置される。寸胴のグラスに注がれたオレンジジュースは、小さな太陽となって食卓に昇った。僕は、世界の秩序をこの小さなテーブルの上に再現するかのようだ。それは誰に命じられたわけでもない、僕だけの静謐な儀式。完璧にコントロールされた日常の、厳粛な始まりだった。

豆を挽き、湯を沸かす。円を描くようにゆっくりと湯を注ぐと、豊潤なアロマが立ち上り、無機質な部屋の空気を満たしていく。だが、その香ばしさの奥底に、いつもとは違う微かな異臭が混じっていることに気づいた。それは腐敗ではない。もっと観念的な、忘れ去られた時間の澱が沈殿するような匂い。あるいは、存在そのものが緩やかに風化していく過程で発せられる、形而上学的な『綻びの匂い』とでも呼ぶべきものだった。

その日から、世界の均衡は静かに崩れ始めた。『綻びの匂い』は日ごとにその密度を増し、僕の意識の隙間に霧のように浸透していく。はじめは換気が悪いのかと窓を開け放ち、排水溝の奥まで洗浄してみた。だが、匂いの源流はどこにも見当たらない。それは物理的な汚れではなく、もっと根源的な場所から発せられているようだった。 僕は内省の海へと深く潜っていく。自らの記憶の棚を一つずつ検め、認識の壁に亀裂がないかを探るように。幼い頃の夏草の匂い、初めて恋をした時の甘い空気、それら鮮やかなはずの記憶の断片が、まるで色褪せた写真のように平板に見える。そして確信した。この匂いは外部から来るのではない。僕自身の内部、その存在の中心から、じわりと滲み出しているのだと。

そして、ある朝、ついにその正体を悟った。 それは、腐敗を防ぐための香りだった。ホルマリンにも似た、しかしどこか甘美ささえ感じさせる、冷たい『防腐処理』の香り。僕という存在が、この変化のない『今』という瞬間に、未来永劫固定されるための処理。そのための香気なのだ。 鏡を覗き込む。そこに映る姿に、昨日との違いは見出せない。だが、ガラスの向こう側の男は、もはや僕ではない何かだった。自己という認識が少しずつ剥離していく。まるで、生きたまま美しい姿を保って針で留められた蝶のように。この身体という精巧な器の中で、意識だけが防腐処理を施され、永遠に保存されるのだ。その途方もない事実に、思考は麻痺した。

絶望が静かに部屋を満たす。僕は、自らの意志とは無関係に、しかし抗うこともなく、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。右手がトーストを掴み、口元へと運んでいく。この一連の動作が、外部から与えられた役割を演じているだけなのか、それとも風化しゆく自己を繋ぎ止めるための、最後の無意味な儀式なのか。もはや判然としなかった。 ただ、防腐処理の香りが満ちるこの静寂の中、僕は永遠に続くこの朝を、受け入れるしかなかった。食卓という祭壇の上で、冷めていくコーヒーの湯気だけが、かつてそこに時間が流れていたことを微かに示していた。

この記事をシェアする
このサイトについて