残響する怒り

妻、佳織を失ってからどれくらい経っただろうか。佐伯遼介は、埃っぽい部屋の片隅で、佳織が遺した古いレーザーポインターを指先で弄んでいた。窓の外はもう薄暗く、都市の喧騒も遠い響きのようにしか感じられない。この部屋に引きこもるようになってから、外界との繋がりはほとんど断たれた。壁は薄く、隣人の生活音が微かに漏れ聞こえてくる。だが、最近になって、その隣人の気配とは異なる、もっと不穏な「何か」が壁の向こうにあるような気がしていた。

それは、まるで自分の内側で蠢く、澱んだ感情の澱のようなものだった。時折、佳織の幻影が囁く。「…あなたの…」。その言葉はいつも断片的で、肝心な部分を濁す。遼介は、佳織を追い詰めていたのは自分自身だったのではないか、その鬱積した感情が彼女を苦しめたのではないか、そして今、その負の感情が自分自身を蝕んでいるのではないか、という恐怖に苛まれていた。壁の向こうの気配は、そんな彼の罪悪感と怒りを増幅させる。

ある夜、その気配がいつも以上に濃密になった。部屋の空気は重く、息苦しいほどだ。遼介は、無意識のうちに壁に耳を押し当てた。聞こえてくるのは、荒々しい息遣いのような、あるいは抑えきれない内なる叫びのような、漠然とした音。それは、自分自身の内側から響いてくる声と、奇妙なほど共鳴しているように感じられた。まるで、長年溜め込んできた怒りが、壁の向こうの「何か」と呼応しているかのようだ。佳織の幻影が、かすかな光を放つレーザーポインターを指差す。「…撃って…」。その声に導かれるように、遼介はレーザーポインターのスイッチを入れた。赤い光線が、暗闇を切り裂いて壁を捉える。

カチリ、と乾いた音を立てて、レーザーポインターの光が壁に当たった瞬間、壁の表面に微かな歪みが走った。それは、まるで壁が薄い膜のように、内側から押し返されているかのようだ。遼介の脳裏に、過去の断片がフラッシュバックする。佳織の泣き顔、自分の怒鳴り声、そして、もう二度と戻らない彼女の温もり。壁の向こうから、無数の赤い光の点が、まるで内なる激情の奔流のように、遼介の視界を横切っていく。部屋全体が、見えない「怒り」の共鳴によって、不気味な光の残像に満たされていく。

壁の向こうの「気配」と、自分の中に渦巻く「怒り」が、この部屋ごと、異質な次元へと引きずり込んでいるのではないか。遼介はそう思った。壁の歪みはさらに広がり、赤い光の残像は部屋中を縦横無尽に飛び交う。現実と幻覚の境界線が曖昧になり、遼介はただ、その奔流に呑み込まれるように、部屋の床に崩れ落ちた。壁の向こうからの気配は、いつの間にか消えていた。部屋には、レーザー光線の残像だけが、暗闇の中で静かに明滅している。遼介の感情は、怒りと恐怖、そして深まる闇の中で、永遠に彷徨い続けるかのように見えた。彼が解放されたのか、それとも更なる絶望に囚われたのかは、誰にも分からない。ただ、静寂だけが、重く部屋を支配していた。

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