星降る夜の編みかけマフラー
「綺麗だね、星空」
静寂を破る沙織の声に、健太はゆるりと顔を上げた。人里離れた山奥のキャンプ場。今夜は珍しく雲一つなく、漆黒の夜空には数えきれないほどの星が瞬いていた。焚き火の暖かな光が、二人の顔を照らしている。
「本当に。こんなにたくさんの星を見るのは久しぶりだよ」
健太は、焚き火の炎を見つめながら答えた。隣では、沙織が編みかけのマフラーを編み進めている。指先から繰り出される毛糸の動きは、慣れたものではない。健太は、ぼんやりと沙織の指先と、それを包む炎の揺らめきを眺めていた。
ふと、健太は奇妙な感覚に襲われた。焚き火で暖められた、この心地よい円形の空間と、その外側の冷たい夜の空気との境界線。そこが、なんだか曖昧に感じられたのだ。まるで、空間そのものが、熱によって溶けたロウのように、ゆっくりと、しかし確実に歪んでいるような……。焚き火の炎の赤やオレンジの筋が、普段ならもっとランダムに揺らめいているはずなのに、今は奇妙なほど直線的に、まっすぐと空へと伸びているように見えた。
「沙織、なんか変じゃない? この焚き火の周りの空気」
「え? 変って何が?」
沙織は、編みかけのマフラーから顔を上げ、首を傾げた。その表情は、健太の感覚とは裏腹に、至って普通だった。
「いや、なんというか……空間が、こう、圧縮されてるような……」
健太は言葉を探した。さらに奇妙だったのは、沙織のマフラーだった。彼女は確かに、この一時間ほど編み続けているはずだ。しかし、健太の目には、マフラーが完成品のように見えてしまう部分があった。指定した長さの半分も編めていないはずなのに、そこだけは、まるで最初からそういう模様だったかのように、糸が密に詰まり、完成された形をしていたのだ。
「気のせいだよ、健太。疲れてるんじゃない?」
沙織はからかうように笑った。健太は、自分の空間認識がおかしいのだろうか、と首を傾げた。しかし、あの違和感は、単なる疲労で片付けられるものではない気がした。
「ちょっと、田中さんに聞いてくるよ」
健太は立ち上がり、キャンプ場の管理人である田中さんのバンガローへと向かった。田中さんは、無愛想だが、この山奥のキャンプ場のことを誰よりも知っている人物だ。
「田中さん、こんばんは。あの、このキャンプ場、何か変わったところってありますか?」
「変わった、ねえ。星空が綺麗だから、何でも不思議に見えるんだよ。それだけさ」
田中さんは、ぶっきらぼうにそう言い、健太の顔をまっすぐ見つめた。その目は、星空のように深く、どこか遠いものを映しているようだった。
バンガローに戻り、改めて沙織のマフラーに目をやった。やはり、あの奇妙な「完成度」の箇所が気になる。よく見ると、糸の密度が場所によって極端に違うことに気づいた。ぎっしりと詰まった部分と、ぽっかりと穴が開いたように粗い部分が、まるで意図されたかのように規則的に並んでいる。それは、まるで複雑な模様のようだった。
健太は、ふと、ある奇抜な仮説に思い至った。このキャンプ場全体が、ある「編み方」によって作られた空間なのではないか、と。焚き火の熱、夜空の星々、そして沙織が編むマフラー。それら全てが、ある共通の「パターン」に従って配置されているのではないか、と。
「沙織、ちょっとマフラー、編むのをやめてくれる?」
健太は、沙織にそう頼み、マフラーを手に取った。そして、その編み目をじっと見つめた。すると、驚くべきことに、マフラーの編み目には、夜空に輝く星座の配置と酷似した「模様」が浮かび上がっていたのだ。オリオン座、カシオペヤ座……。それらが、編み目の密度変化によって、まるで星座盤のように表現されていた。
「まさか……」
健太は、マフラーの編み目と、キャンプ場の地形、そして頭上に広がる星座の配置を、脳裏で重ね合わせた。そこには、紛れもない「パターン」が存在した。このキャンプ場全体が、ある巨大な「編み物」であり、自分たちはその編み目の中にいる。それは、一種の「空間編み」とでも言うべきものだった。
マフラーの編み目の密度が場所によって違うのは、宇宙の法則に基づいた「編み方」の密度変化を模倣していたからだ。沙織がマフラーを編む速度が遅かったのは、彼女自身も無意識のうちに、この「空間編み」のパターンを辿っていたからに他ならない。健太が感じていた空間の歪みは、この巨大な編み目構造による光の屈折や空間の収縮によるものだったのだ。
健太が沙織の隣に座り直し、星空を見上げた時、田中さんが静かに近づいてきた。彼は、健太が手に持つマフラーと、夜空を交互に見つめ、そして星空を指差しながら、かすかに頷いた。彼は、この「宇宙の編み物」の管理者だったのだ。
健太が最後に見た星空は、ただの星空ではなかった。それは、宇宙を織りなす巨大な編み目の「模様」として、健太の目に映っていた。沙織が編んだマフラーは、その宇宙の秘密を解き明かす、小さな、しかし確かな鍵となったのだ。