感謝を編む雲
潮の香りが、埃っぽい畳の匂いと混じり合っていた。亡き両親が遺した海辺の一軒家は、僕たち兄弟の帰りを待っていたかのように静まり返っている。
「この査定額が現実だ。思い出に浸るのは結構だが、固定資産税は感傷では払えない」
兄の陽一は、冷たい紙の束をテーブルに置き、事実だけを告げた。その横顔は、計測可能な数値だけを信じる彼の哲学そのものだった。
僕は、日に焼けてささくれた柱をそっと撫でた。ひんやりとした木の感触が、忘れていた幼い日の記憶を呼び覚ます。
「この柱は、僕たちの忘れた『ありがとう』で重くなっているんだ。兄さんには、この家の呼吸が聞こえないのかい」
「また詩が始まった。修二、君の主張の根拠は、観測不可能な感傷だということか?」
陽一が乾いた声でそう言った。僕は彼の合理主義が、時々刃物のように感じられて唇を噛んだ。窓の外、空には奇妙な雲が浮かんでいた。まるで真っ白な絵の具を分厚く塗りたくったまま、ぴたりと動きを止めたような、異様に密度の高い雲だった。
「違う! ここには、言葉にできなかった想いが、もう飽和しているんだ。感謝も、後悔も、全部!」
僕が叫んだ瞬間だった。陽一が嘲るように口を開いた。
「感傷的なポエムだな。証明してみろ」
その言葉が引き金だった。古い木枠の窓が、カタ、と微かに震える。見上げると、空に静止していた雲の密度が、ほんの僅かに増したように見えた。
陽一の言葉を合図にしたかのように、その雲がゆっくりと形を変え始めた。最初に現れたのは、小さな、いびつな巾着袋の形だった。僕が幼い頃、高熱を出した兄のために、庭の貝殻を詰めて作ったお守り。けれど、気恥ずかしくて、ついに渡せなかったものだ。
雲は純粋な感謝を示すように淡く、白く輝き始めた。その光は、陽一の揺るぎない横顔に柔らかな陰影を落とす。彼が、初めて怪訝そうに眉をひそめるのを僕は見た。彼の合理的な世界に、観測不可能な光が亀裂を入れたのだ。
雲は次々と形を変え、僕たちの記憶を空に編み上げていく。だが、それは奇妙な光景だった。兄が僕の大学の学費を黙って振り込んでくれた日の記憶。陽一の頭上には、自らに課した「義務」を象徴するかのような、重たい鉛色の雲が浮かぶ。対して僕の視界には、あの時の「救済」への感謝が、淡い光を放つ雲となって映っていた。
二つの雲は同じ空間に重なり合いながら、決して混じり合うことはない。僕たちは空に映し出された同じ現象の中に、決して交わることのないそれぞれの「真実」を見ていた。陽一には彼の、僕には僕の、世界がそこにあった。
やがて、無数の記憶を投影し終えた雲は、ゆっくりと一つの場所に収束していく。全ての想いが溶け合い、空には巨大で半透明な球体だけが静かに浮かんでいた。それは肯定も否定もせず、ただそこに在るだけだった。
陽一は、テーブルの上の査定書類を黙って脇に押しやった。そして、僕が淹れたコーヒーのカップを、静かに手に取った。
僕たちは窓辺に並んで、言葉もなく、空に浮かぶ静かな球体を見つめ続けた。潮風が、二人の間の沈黙を優しく撫でていった。