カプセルの中の揺らぎ

締切前夜、佐倉陽菜はカプセルホテルの狭い個室にいた。東京都心の喧騒も、この隔絶された空間には届かない。フリーランスの動画編集者である彼女にとって、この静寂は聖域だ。巨大なプロジェクトの佳境。クライアントの田中健太は、オンライン上ではいつも明るく、絵文字を多用する陽気な人物だった。

「陽菜さん、このシーン、もっとこう、なんかこう、伝わる感じにしてもらえますか?」

深夜のオンライン会議。画面越しの田中の言葉は、いつも核心を突いているようで、いていない。陽菜は眉をひそめた。編集済みの動画を何度も再生し、どの部分を指しているのか、どんなニュアンスを求めているのかを必死に読み取ろうとする。

「具体的に、どの部分でしょうか?」「どのようなニュアンスをご希望ですか?」

陽菜の問いに、田中は曖昧な笑みを浮かべるだけだ。「いや、陽菜さんなら分かってくれると思って」「俺も、そういう風に感じたんだよな」

その時、田中がふと呟いた。「もしかして、俺に何か言いたいことがあるのかな…?」

陽菜は息を呑んだ。彼の言葉は、まるで自分の心の奥底を見透かしているかのようだった。人との直接的なコミュニケーションを苦手とする自分。言葉にできない思いを抱え、それを他者に伝えられずにいる自分。田中の掴みどころのない言葉は、そんな自身の姿と重なり、陽菜の胸に小さな波紋を広げた。

会議が終わり、陽菜は一人、カプセルホテルのベッドに沈み込んだ。スマートフォンの画面に映る田中のメッセージを、何度も読み返す。彼の曖昧な言葉の裏に、時折垣間見える寂しげな雰囲気に、陽菜は奇妙な親近感を覚えていた。動画編集という作業を通して、画面越しの田中という人間を、少しずつ理解しようと試みる。しかし、オンラインでのやり取りだけでは、どうしても埋まらない距離感があった。それは、彼女自身が普段から抱える、他者との繋がりを求めるが故の不安と、痛いほど重なっていた。

締め切り当日。

陽菜は、田中が本当に求めているであろう「伝わる感じ」を、自身の解釈で動画に落とし込んだ。最後の確認として、田中へ動画を送る。「これで、本当に大丈夫かな…」

彼女は不安を感じながら、カプセルホテルの部屋で、窓の外のネオンをぼんやりと眺めていた。その時、田中から「確認しました。最高です!」というメッセージが届く。安堵の息をついた、その直後。

「陽菜さん、あの、実は、あの会議の時、ちょっと落ち込んでて…。仕事でも色々あって、なんか、うまく言葉にできなかったんだ。」

田中から長文のメッセージが届いた。そこには、仕事での悩みや、孤独感について、率直な言葉で綴られていた。陽菜は、田中の曖昧な指示は、彼自身の心の揺らぎの表れだったのだと気づいた。それは、陽菜が普段感じている自己肯定感の低さや、人とのコミュニケーションへの苦手意識と、痛いほど重なり合った。

「私も、時々そう感じます。でも、動画を通して、少しでも陽菜さんの気持ちが伝わっていたら嬉しいです。」

陽菜は、田中のメッセージに、素直な気持ちを返信した。カプセルホテルを出て、夜明け前の静かな街を歩き始める。街行く人々が、それぞれの日常を営んでいる。陽菜は、以前とは少し違う視線で彼らを見つめる。オンラインでの繋がりは、時として現実の距離を曖昧にするが、その裏には、それぞれの人間が抱える孤独や葛藤があることを知った。画面越しの繋がりが、現実の人間関係に微かな変化をもたらす。陽菜は、少しだけ、世界が優しくなったような気がしていた。それは、ほろ苦くも、どこか温かい、新しい始まりの予感だった。

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