交差点の静寂
祝日の午後、静かな地方都市の空はどんよりと曇っていた。健一は、いつものように近所の交差点の角にある小さなレストランにいた。窓際の席から見えるのは、雨に濡れたアスファルトと、まばらに往来する車だけだ。カチャリ、カチャリ。ナイフとフォークが銀色の皿に触れる音だけが、店内の静寂を破っていた。食卓に並ぶのは、彼がこよなく愛する、シンプルなステーキ。このルーティンが、健一の感情の起伏の少ない日常を、静かに彩っていた。
店内の客はまばらで、皆、それぞれの時間を過ごしている。健一は、彼らの無関心な様子にも、特に何も感じなかった。ただ、目の前のステーキに集中し、その確かな味覚と触覚だけを頼りに、この祝日を味わっていた。街灯の光は、空の暗さを映して、一層弱々しく感じられた。
食事が終わる頃、店のドアが静かに開いた。そこに立っていたのは、全身を黒いコートで包んだ男だった。その顔は影に隠れ、表情は一切伺えない。男は、健一のテーブルにゆっくりと近づき、何も言わなかった。ただ、健一の意識の片隅に、冷たい光を放つイメージが、すっと植え付けられた。それは、一枚のカード。カードには、「選択」という二文字だけが、氷のように冷たく刻まれているように見えた。
健一の意識が、微かに、しかし確実に歪んだ。目の前にあったレストランの風景が、一瞬にして、見慣れない、しかしどこか懐かしい光景へと変わった。それは、彼が過去に取らなかったかもしれない、もう一つの人生の断片のようだった。そして、男の声が、直接健一の思考に響いてきた。それは、感情の起伏を一切感じさせない、機械的な、しかし有無を言わせぬ響きを持った声だった。「どちらかを選んでください」。選択肢は、このままの人生を続けるか、それとも、今、提示されたもう一つの人生を歩むか。それは、あまりにも単純で、そしてあまりにも重い問いだった。
健一は思考した。今、目の前にあるステーキの味。静かで、どこか物寂しい祝日の午後。そして、これまで築き上げてきた、見慣れた日常。それらすべてが、彼にとって揺るぎない「事実」として、確固たる輪郭を持って存在していた。しかし、提示されたもう一つの人生には、未知の可能性という「事実」が、彼がこれまで認識しなかった形で、確かに存在していた。交差点の向こう側、信号が赤から青へと変わる。それは、単なる信号の変化ではなかった。それは、時間の流れそのものの、静かな、しかし決定的な変化を示唆しているかのようだった。
健一は、ゆっくりと顔を上げた。黒いコートの男を、じっと見つめる。そして、何のためらいもなく、椅子から立ち上がった。そのまま、店のドアを開け、外へと歩み出した。彼がどちらの道を選んだのか、それは誰にも分からない。ただ、交差点の向こうに、二つの異なる光景が、ぼんやりとした輪郭となって、静かに浮かび上がっているように見えた。それは、彼が選択した未来と、そして、彼が選択しなかった未来の、儚い残像だった。静寂が、再び街を包み込んでいく。