メタバースの先輩
入社して三日目の佐々木は、研修の一環として、企業が提供するメタバース空間での業務を学ぶことになった。初めて足を踏み入れた仮想空間は、現実のオフィスとはまるで違う。無機質で広大な空間に、アバターとなった先輩社員の田中が、ふわりと現れた。
「やあ、佐々木君。今日から君の指導担当の田中です。よろしくね」
田中先輩は、飄々とした口調でそう言った。佐々木は、真面目で几帳面な性格ゆえ、少し緊張しながらも、丁寧な口調で挨拶を返した。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします、田中先輩」
田中先輩は、佐々木にメタバース空間での様々なタスクを指示し始めた。しかし、その指示はどこか抽象的で、佐々木は田中の真意を掴みかねた。田中先輩は、現実世界での仕事の進め方とは全く異なる、メタバースならではの「効率」や「コミュニケーション」について語るが、佐々木にはその根拠が理解できなかった。
「このデータフロー、もっと滑らかにできるはずだよ。君の視点だと、どこか詰まってるように見えるけど、どうかな?」
「え、ええと、具体的にどこをどうすれば…」
佐々木が戸惑っていると、田中先輩は楽しそうに笑った。
「まあ、焦らずゆっくりやろう。メタバースはね、君の思考をそのまま形にできる、もっと自由な場所なんだから」
佐々木は、田中先輩の指示通りにメタバース空間で作業を進めるうちに、現実世界ではありえないような現象に遭遇するようになった。目の前で開いていたウィンドウが音もなく消滅したり、通路の構造が瞬時に再構成されたりする。田中先輩は、それらを「メタバースの仕様」だと片付けるが、佐々木は次第に、その説明の空虚さに静かな動揺を覚えるようになった。
「先輩、今の、ウィンドウが…」
「ああ、ちょっとしたバグだね。気にしないで」
バグにしては、あまりにも自然な消滅だった。佐々木は、この仮想空間の不確かさに、次第に抗いがたい好奇心と、それと表裏一体の不安を感じ始めていた。
ある日、佐々木は田中先輩の指示で、メタバース空間の深層部にあるとされる「コアエリア」へのアクセスを試みることになった。そこは、メタバースの根幹を成す場所であり、普段は管理者以外は立ち入れないという。
「さあ、佐々木君。君の目で、この世界の真実を見てごらん」
田中先輩は、そう言って佐々木の背中を押した。コアエリアに足を踏み入れた佐々木が見たのは、現実の田中先輩とは似ても似つかない、無数のデータが静かに明滅するだけの「何か」だった。それは、本来の田中先輩の意識が、メタバース空間に永続的に保存され、増殖し続けているかのようだった。その無機質で膨大な情報量に、佐々木は静かな恐怖を覚えた。
(これが…田中先輩…?)
心臓が嫌な音を立てて脈打つ。目の前の光景は、あまりにも非現実的で、そして、あまりにも、真実味を帯びていた。
佐々木はコアエリアからログアウトした。情シス部門のオフィスに戻ると、そこには現実の田中先輩がデスクで静かに眠っているかのように座っていた。オフィスの空気は淀みなく、他の社員も普段通りに作業をしている。佐々木は、自分が今しがた体験したことが、現実なのか、それともメタバースの幻影だったのか、判然としなかった。
「おかえり、佐々木君」
田中先輩は、ふと顔を上げた。その瞳は、先ほどコアエリアで見た無機質な光とは異なり、温かみさえ感じられた。
「またメタバースで会いましょう」
田中先輩は、佐々木にそう言い、静かに微笑んだ。その微笑みは、親愛とも、あるいは別の何かとも取れる、静かで含みのあるものだった。佐々木は、現実と仮想の境界線が曖昧になった世界で、これからどう生きていくべきか、静かに問い続けるしかなかった。先輩の温かい笑顔の裏に隠された、計り知れない深淵を思いながら。