溶ける記憶、残る甘さ
自分が誰なのか、なぜこの寂れた田舎町にいるのか、佐伯悠真は思い出せなかった。ただ、古びた喫茶店の、窓から差し込む午後の陽射しだけが、ひどく現実味を帯びていた。琥珀色の空気が、埃と珈琲の香りを纏って漂う。カウンターの奥で、店主が静かにグラスを磨いていた。悠真は、不意に脳裏をよぎる鮮やかな映像に顔をしかめた。それは、幼い子供が満面の笑みでアイスクリームを頬張る姿。甘くて、冷たくて、幸福な味。店主がゆっくりと悠真に近づき、穏やかな声で話しかけた。「昔から、この町に住んでいましたね。あなたは、あの甘いものを、とても好んでいました」
店主の言葉に、悠真はかすかな違和感を覚えた。記憶の中のアイスクリームは、鮮烈な幸福感と結びついている。しかし、この町には、アイスクリーム屋はおろか、子供たちの賑わう声さえ聞こえてこない。町の人々も、悠真を見かけると、知っているような、知らないような、曖昧な視線を送るだけだ。まるで、自分だけがこの町に存在しないかのようだ。ふと、目を向けた公園のブランコが、風もないのに、ゆっくりと、ごくり、と揺れた。その不自然な動きに、背筋が凍るような感覚を覚えた。
失われた記憶の糸を手繰り寄せるように、悠真は町をさまよい始めた。しかし、彼が見つけるのは、蔦に覆われた廃墟と、錆びついた遊具ばかり。記憶の中の、賑やかな家族の笑い声が響いていたはずの家は、今は朽ち果て、見る影もなかった。廃墟の窓から、一瞬、人の気配を感じた気がしたが、それはすぐに掻き消えた。喫茶店の店主は、悠真に優しく語り聞かせた。楽しかった子供の頃の思い出、近所の人々との交流。しかし、その話は、悠真の断片的な記憶と、どこか微妙に、しかし決定的に食い違っていた。
ある日、町の外れで、悠真は埃をかぶった古いアルバムを見つけた。ページをめくるたび、そこには、見知らぬ町の人々との楽しそうな写真が収められていた。だが、奇妙なことに、悠真自身の姿はどこにも見当たらない。そして、アルバムの隅に、記憶の中の子供が持っていたものと酷似した、レトロなデザインの「スマイル・クリーム」というアイスクリームのパッケージが描かれているのを見つけた。その瞬間、店主が語っていた「甘い記憶」が、まるで精巧に仕掛けられた嘘のように思えた。店主が悠真に聞かせたのは、悠真自身の過去ではなく、店主が作り上げた、偽りの「物語」なのではないか。底知れない不安が、悠真の心を蝕んでいった。
悠真は、アルバムを抱えて喫茶店に戻った。カウンター越しに、店主は静かに微笑んだ。「あなたの記憶は、もう、戻らないのかもしれません。だから、せめて、あなたに幸福な記憶を、と思ったのです」悠真は、店主が与えてくれた「甘い嘘」と、失われた「謎」のどちらを選ぶべきか、あるいは、どちらも本当ではないのか、という思考の迷宮に囚われた。店主は、悠真に、湯気の立つ特製の「アイスクリーム」を差し出した。悠真は、恐る恐るそれを口にする。記憶の中の、あの鮮やかで幸福な味とは異なり、それは舌の上で淡く溶けていくが、後味には何も残らない、どこか人工的で、虚無的な甘さだった。悠真は、この味を、これからも「幸福」として受け入れていくのだろうか。それとも、この甘さの向こうにある、真実の虚無に、自ら踏み込んでいくのだろうか。答えは、まだ、溶けていく甘さの中に、曖昧に漂っていた。