丘を越えた先
佐藤健一は、スマートフォンの画面に釘付けになっていた。 「#人生謳歌 #最高の休日 #自己投資」 完璧なフィルター加工を施した、カフェの斜め上から撮ったコーヒーの写真。そして、ジムで流した(実際には数分で息切れしてギブアップした)汗をアピールする、わざとらしい汗だく自撮り。 「よし、これで『いいね』が何個つくか…」 彼は、フォロワー数千人を誇るインフルエンサー、「キング・オブ・ライフ」への対抗意識を燃やしていた。 「ったく、あいつの『都会の喧騒から離れ、自然の中で自己と向き合う』だぁ? 田舎の風景すら、凡人には使いこなせないんだよ!」 健一は、キングの投稿に心無いコメントを打ち込み、一人でほくそ笑んだ。その様子を、妻の恵子は隣で静かに見つめていた。 「またやってるわ…」 溜息をつく彼女の声は、健一の耳には届いていないようだった。
キングへのマウントを取りたい一心で、健一は次の投稿を計画した。「週末は、あえて人里離れた場所で、真の豊かさを探求する」。 目指すは、景色の良い丘の上。 しかし、そこにあったのは、期待したような「映える」景色ではなかった。ただ、寂れたドライブインが一つ、ぽつんと佇んでいるだけ。耳障りなのは、すぐ脇を走る高速道路から絶え間なく流れてくる車の走行音。健一の心に広がる空虚さを、その騒音が嘲笑うかのようだった。
「ふん、こんな場所でも、俺にかかれば『工夫次第でこんなに楽しめる』って投稿ができるんだ!」
SNS映えする写真を撮るため、健一は危険な場所、高速道路の路肩に張り出した土手に無理やり足を踏み入れた。 「危ないからやめなさい。どうせ誰も見てないわよ、そんなあなたのアカウント。」 恵子は、諦めと軽蔑が混じった声で静止したが、健一は聞く耳を持たなかった。 「これはキングへのカウンターだ! 今に見てろ!」
キングに「いいね」数で差をつけるための、スリル満点の「決定的瞬間」を捉えようと、健一は丘の上の高速道路のすぐそばで、スマホを構え身を乗り出した。 狙うは、高速で走り抜ける車の「疾走感」と、それを見下ろす自身の「孤独な哲学」を融合させた一枚。
その時だった。
予想外の強風が、健一の体を容赦なく煽った。
「うわっ!」
バランスを崩し、健一はそのまま、轟音を立てて走り抜ける高速道路へと転落した。あっけなく、数台の車に轢かれ、即死だった。
SNSには、健一が投稿した写真への「いいね」やコメントの通知が、鳴りやまないまま、彼のスマートフォンは、事故現場の土砂に静かに埋もれていった。
警察からの連絡を受けた恵子は、ただ「そうですか」とだけ、淡々と答えた。
健一が「敵」に差をつけようと執着したSNSアカウントは、彼の死後も、キング・オブ・ライフが投稿する「人生謳歌」の投稿に、健一の死を知らない誰かが「いいね」を押し続ける。
健一の承認欲求は、死してなお、皮肉にも他者の承認によって満たされ続けるかのような、最も滑稽で無意味な形で、虚しく継続されるのだった。残された妻は、夫の愚かさを静かに、しかし冷たく見つめるだけだ。読者は、健一の自己欺瞞と、それを助長するSNS社会への嫌悪感を抱く。