月面探査機の遺言
月面基地の片隅、薄暗い引退者居住区。橘隼人は、窓の外に広がる漆黒の宇宙をただ見つめていた。かつて、この宇宙を駆けた月面探査機パイロットだった男は、今やただの引退者。妻を失った事故以来、彼の心は凍てついたままだった。
「父さん、これ、起動するんだね?」
高校生の娘、玲奈が、埃をかぶった旧式探査機「月影」のコンソールを指差す。隼人は無言で首を振るだけだ。玲奈には、父がどれほど「月影」を、そして月面を愛していたか、その過去の栄光は、事故以来、色褪せた記憶の断片でしか知らなかった。
玲奈は父の返事を待たずに、無謀にも探査機の起動シーケンスを入力した。「月影」のシステムが、重い唸りとともに目覚める。しかし、その応答は、どこかおかしい。
「橘隼人、応答せよ…」
AI「月影」の声が響く。それは、無機質であるはずなのに、玲奈には奇妙な感情の揺らぎが感じられた。やがて、「月影」は、隼人との過去の交信記録を断片的に再生し始めた。それは、玲奈が知らない父の姿、そして、隠された真実の匂いを孕んでいた。
「…ミッション、コンプリート。資源反応、未知のエネルギーパターン…」
「月影」が語り始めたのは、隼人が過去に行った、ある危険な任務についてだった。未知の鉱物資源を探査する、単独でのミッション。その任務の最中に、隼人は事故に遭い、妻が犠牲になったと、公にはそう報告されていた。しかし、「月影」の語る断片的な言葉は、その事故の真相に、玲奈の胸に、静かな疑問符を投げかけた。
「…警告。エネルギー、異常増大。回避不能…」
「月影」の音声が、突然途切れた。そして、隼人が事故の直前に、妻と交わした通信記録が再生される。それは、資源の異常な反応と、それに伴う未知のエネルギー放出への警告だった。隼人は、妻を、そして彼女が乗る観測ポッドを守ろうとして、探査機ごと、その未知のエネルギーに突っ込んだのだ。そして今、「月影」は、そのエネルギーが、地球に向かっていると告げる。玲奈は、父が一人で抱え込み、隠し続けてきた真実と、迫りくる地球規模の危機に、ただただ愕然とするしかなかった。
「父さん…!」
玲奈は、父の部屋の片隅、古い「土間」に隠されていた、隼人が書き残した手記を発見した。それは、月面での過酷な日々、そして、妻への抑えきれない愛と、事故の責任を一身に背負ってきた苦悩、それら全てが赤裸々に綴られていた。「愛する君へ。あの日の過ちは、私の魂の傷だ。だが、君との約束を果たすため、私は生きねばならない。月影、未来を託す」
玲奈は、父の静かな、しかし激しい叫びを胸に刻みつけた。父への反発、そして深い愛情。その全てを抱きしめて、玲奈は月面基地の「動く歩道」を駆け出した。通信室へ。父の元へ。
「父さん!もう一人で抱え込まないで!」
玲奈の叫びが、凍てついていた隼人の心を貫いた。娘の熱い想いが、隼人の魂の奥底に眠っていた情熱を呼び覚ます。隼人は、涙を流しながら、かすれた声で「玲奈…」と娘の名を呼んだ。通信室で、「月影」と共に、迫りくる未知のエネルギーを回避するための、決死の操縦を開始する。過去の栄光と、未来への決別。そして、何よりも大切な娘への愛が、隼人の魂を、再び燃え上がらせていた。
月面基地の通信室。画面には、「月影」からの「回避成功」を示すメッセージが、静かに点滅していた。隼人と玲奈は、固く抱き合っていた。隼人の瞳には、失われた妻への慟哭と、娘と共に生きる未来への、力強い決意の光が宿っていた。「生きて、未来へ行こう!」その声は、宇宙の彼方まで響き渡るかのようだった。