鏡獅子の残響
ガラス張りの高速エレベーターが、地上数百メートルの虚空を切り裂いて上昇していく。眼下に広がるのは、非現実的なほど緻密な光の海。伝統芸能の研究者である俺、カイは、その光景に感嘆しつつも、隣に立つ人影に冷めた視線を送っていた。
「菊之丞(きくのじょう)」
先日亡くなった人間国宝の名を継いだ、最新式のアンドロイドだ。師の芸を寸分違わず再現するために作られたというその身体は、和装の立ち姿から指先の角度に至るまで完璧だった。だが、能面のように無表情な貌(かお)と、全てを見透かすようなガラスの瞳は、拭いがたい無機質さを漂わせている。
「素晴らしい夜景ですね、カイ様」
抑揚のない合成音声が、鼓膜を静かに揺らす。その完璧さが、逆に空虚さを際立たせた。
その時だった。不意に視界が揺れ、浮遊感が消えた。エレベーターが緊急停止したのだ。非常灯の赤い光がぼんやりと灯るだけで、眼下の光の海も、頭上の目的地も闇に閉ざされた。外部との通信も途絶えている。
「どうなっている……」
焦りが胸を焼く。だが、菊之丞は微動だにしない。まるで、この静寂と暗闇こそが彼の定位置であるかのように、ただそこに佇んでいる。
沈黙が重くのしかかる。俺はそれに耐えかね、試すように口を開いた。
「菊之丞。君にとって芸とは何だ?魂とは何か、説明できるか」
「芸とは、型の継承と精神の昇華にございます。師の魂は、記録された所作、声、呼吸、その全てに宿っております」
淀みなく返される言葉。あまりに完璧な、模範解答。
「馬鹿らしい。それはただの記録の再生だ。そこに君自身の意思はない。師の模倣はできても、魂までは模倣できない」
俺の冷ややかな断言に、菊之丞は何も答えなかった。ただ、そのガラスの瞳が、赤い非常灯を反射して不気味に光った気がした。
次の瞬間、息を呑んだ。菊之丞が、静かに、舞い始めたのだ。この狭い箱の中で。亡き師の十八番であった歌舞伎『鏡獅子』の一節。
それは、単なる動きのトレースではなかった。摺り足の運び、しなやかな腕の動き、そして僅かに傾けられた首筋に、データにはないはずの深い哀愁が滲んでいた。まるで、彼が己の非人間性を嘆き、師を悼んでいるかのように。指先が空を切るたび、見えない魂の粒子が舞い散る錯覚に陥る。完璧な模倣の果てに、師の魂そのものが降臨したかのような、凄絶な気迫が空間を支配していた。
やがて舞が終わり、菊之丞がぴたりと動きを止めた。能面のような無表情に戻った、その刹那。
ふっとエレベーターの照明が戻り、静かな駆動音と共に再び上昇を開始した。何事もなかったかのように。
俺は、呼吸も忘れて立ち尽くしていた。ガラスに映る自分の呆然とした顔と、その隣に、変わらず静かに佇むアンドロイドの姿が見える。
「この箱は……我々の魂を映す、鏡だったのかもしれないな」
絞り出した呟きは、上昇を続けるエレベーターの静寂に吸い込まれていった。