洗濯機の中の条約

築50年ほどの古い一軒家。佐藤陽子、60歳。元教師という肩書きが、その几帳面さを物語っているかのように、家の中は隅々まで手入れが行き届いていた。しかし、ただ一つ、リビングの片隅に鎮座する洗濯機だけは、古びた空気を纏っていた。亡き夫、健一が遺したものだ。

「お母さん、この洗濯機、さすがに古すぎるわよ。電気代だってばかにならないし、新しい省エネタイプに買い替えましょう?」

娘の舞、30代。フリーランスのデザイナーである彼女は、効率と最新技術を愛する。その言葉は、陽子にとってはいつも、どこか的外れに響いた。

「舞、これはお父さんと決めた『洗濯機使用条約』があるからね。勝手に買い替えるわけにはいかないのよ」

陽子は、静かに、しかし断固としてそう答えた。健一が定めた「条約」とは、「洗濯物は、よくすすぎ、丁寧に扱え。これは士農工商の『工』の精神に通ずる」というものだった。陽子自身、夫がなぜそこまで「丁寧さ」を重んじたのか、その真意を完全に理解しているわけではなかった。ただ、夫の遺したルールであり、彼女にとっては守るべき大切な約束事だった。夫の威厳、そしてその言葉の重みを、陽子は今でも感じていた。

ある日、いつものように洗濯機を回していると、カタカタ、ゴトン、と耳慣れない異音が響いた。まるで、長年酷使されてきた機械が悲鳴を上げているかのようだった。

「ほら、やっぱり! もう寿命よ、お母さん。さっさと買い替えなきゃ、洗濯物どころか、家事全般が止まっちゃうわよ!」

舞は、その異音を逃すまいと、すかさず買い替えを迫る。陽子は、洗濯槽の中で回転する衣類を見つめながら、ふと、戸棚の奥に仕舞い込んでいた古い洗剤のボトルを見つけた。夫が愛用していた、今はもう売られていない銘柄だ。夫の言葉が蘇る。「どんな仕事も、心を込めて丁寧にやりなさい。それが、物の命を大切にすることにも繋がるんだよ」。

夫が亡くなって、もう何年になるだろう。一人で家を守る中で、陽子は、夫が遺した数々の「ルール」に、いつの間にか雁字搦めにされているような息苦しさを感じることがあった。この洗濯機然り、毎朝の新聞の折り方然り。そのこだわりが、単なる古い習慣ではなく、何か別の、もっと深い意味を持っているのではないか。陽子は、漠然とした違和感を抱き始めていた。

「もう、お母さんの頑固さには付き合いきれない!」

業を煮やした舞は、陽子の留守中に、夫の遺品を整理し始めた。祖父の書斎に、埃をかぶった木箱を見つけた。中には、古びた「洗濯機使用条約」の原本と、一通の手紙が入っていた。母親への苛立ちから始めた遺品整理だったが、封を開け、震える手で文字を追ううちに、舞の心は次第に静まっていった。

手紙には、健一が若い頃、過労で倒れかけた経験が綴られていた。その時、彼は「どんな仕事も、手を抜かず、丁寧にこなすこと」の重要性を痛感したのだという。「士農工商の『工』とは、物事を真摯に、大切に扱う心のことだ。それを、お前たちにも、そして陽子にも伝えたかったんだ」。そこには、妻である陽子への、言葉にならないほどの深い愛情と、家族への願いが記されていた。舞は、祖父の優しさに、そして母親がなぜあんなにも頑なだったのかを、ようやく理解し始めていた。

舞は、その手紙を陽子に見せた。夕食時、湯気の立つ食卓を挟んで、舞は祖父の言葉を引用しながら、陽子に語りかけた。「お母さん、お父さん、お母さんのこと、すごく大切に思ってたんだね。『丁寧さ』って、そういうことなんだね。お母さんが、お父さんのこと、ちゃんと大事にしてるの、ちゃんと伝わってるよ」

舞の、素直な言葉に、陽子の目から静かに涙が溢れた。夫が、日々の「洗濯」という、ごくありふれた家事を通して、家族に「丁寧さ」と「物を大切にする心」を伝えようとしていたのだ。あの「条約」は、単なる古い習慣などではなく、夫からの、深い愛情の証だったのだ。陽子は、夫の温もりを、今、改めて感じていた。一方、舞も、祖父の言葉と母親の姿を通して、世代を超えて受け継がれる価値観の繋がり、そして家族の絆の温かさを感じ始めていた。

結局、陽子の洗濯機は、町の修理屋さんの手によって、なんとか修理された。舞は、母親の隣に座り、新しく買った「こだわり洗剤」のボトルを手に取った。それは、祖父の「丁寧さ」を意識し、環境に配慮した製法で作られた、こだわりの洗剤だった。陽子もまた、舞の隣で、古びた洗濯機を、まるで愛おしいもののように、優しく撫でた。二人の間には、言葉にならない、温かい理解が静かに流れていた。洗濯機の中には、まだ、夫が残した古い洗剤が、ほんの少しだけ、残っていた。

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