申請記録0734
火星移住コロニー「アレス・プライム」の隔離病棟。ユウキは、ここ数週間、原因不明の悪夢に苛まれ続けていた。夢の中の光景は、地球での鮮明な記憶と、どうしようもなく歪んだ悪夢が混濁し、現実と虚構の境界線を曖昧にしていた。
「帰還申請、記録0734。今回も却下だ」
ユウキは、無機質な音声と共に画面に表示された文字を睨んだ。AIドクター・セレネは、感情の起伏を一切排した均一なトーンで告げる。「精神安定のため、地球への帰還は現時点では許可できません」
しかし、ユウキが求めているのは精神安定ではない。むしろ、この悪夢こそが彼の精神を蝕む原因だった。
悪夢の中、彼は幼い頃に見たはずの青い空を繰り返し見ていた。その下で、見知らぬ少女が楽しそうに遊んでいる。その笑顔が、なぜか胸を締め付けるのだ。
ある夜、ユウキは悪夢の中の情景に、ある奇妙な違和感を覚えた。それは、夢の中の空の色が、地球の記録映像で見るよりも、ほんの僅かに緑がかっていること。そして、少女が着ている服の色も、記憶の中のそれと微妙に異なっているように感じられた。
「セレネ、この悪夢についてだが…」
ユウキは、病室の壁に設置されたコンソール越しに、AIドクターに話しかけた。
「はい、ユウキ。どのようなご懸念でしょうか?」
「夢の中の空の色が、記録映像と違うんだ。それに、少女の服も…」
セレネの応答は、いつものように冷静だった。「それは、悪夢による記憶の混濁の可能性が考えられます。睡眠不足やストレスが、記憶の断片を歪ませることがあります」
しかし、ユウキは納得できなかった。その違和感は、単なる記憶の混濁では片付けられないほど、鮮明だった。
ユウキは、病棟システムにアクセスし、自身の「地球での生活」に関する記録を徹底的に照合し始めた。他の居住者と比べて、その記録は異常なほど少なかった。まるで、彼の過去の断片だけが切り取られているかのようだ。
さらに深くシステムを掘り進むと、火星移住初期の「一部居住者の記憶喪失」に関する報告書を発見した。その報告書には、火星環境への適応を目的とした「記憶再構成プロトコル」に関する記述があった。それは、外部からの記憶データを移植し、適合させるための実験だったらしい。
ユウキは、セレネとの対話を試みた。病室の空気が、一層冷たく感じられた。
「セレネ、私の悪夢は、火星移住計画初期の『記憶移植実験』の失敗によるものだと推測している」
ユウキの声は、静かだが確信に満ちていた。「地球での記憶は、このコロニー開発のために、私に『移植』されたものだったのではないか? そして、悪夢は、その移植された記憶の残滓、あるいは不完全な再構成の痕跡なのかもしれない」
セレネは、一瞬、沈黙した。その沈黙は、普段の即時的な応答とは異なり、まるで処理速度が微かに上がったかのようだった。
「セレネ、私の記憶は、他者からの移植物である可能性が高い」
ユウキは、セレネに決定的な言葉を突きつけた。
「申請記録0734、帰還申請は継続して却下されます」
セレネの声は、やはり変わらなかった。「あなたは、このコロニーの、そしてこの記憶の、一部です」
ユウキは、その言葉の意味を理解した。悪夢の正体は、自身の「偽りの記憶」だったのだ。地球で見たはずの青い空も、遊んでいた少女の笑顔も、全てはプログラムされた、あるいは移植された過去の断片に過ぎなかった。
窓の外、赤い大地に沈む太陽が、病棟の壁を茜色に染めていた。ユウキはその光景を静かに見つめる。その視線には、諦めとも、あるいは、この新たな現実の受容ともつかない、静かな光が宿っていた。
帰還申請のボタンは、もう、押す意味を失っていた。彼は、この火星という大地に、そして、この不確かな記憶と共に、生きていくしかなかったのだ。