冷蔵庫と僕らの冷戦
突然の失業は、田中一郎の日常を静かに、しかし確実に蝕んでいた。かつてはバリバリと仕事をこなしていた男も、今はただ、自宅のリビングのソファに沈み込み、虚空を見つめるだけの日々。家族との会話も、次第に途切れがちになっていく。そんな折、些細なことから、一郎と息子の健太の間で「冷戦」が勃発した。
事の発端は、冷蔵庫の開け閉めだった。健太が、まるで中身を全部ひっくり返すかのように、乱暴にドアを開け閉めする。その度に、一郎は眉をひそめた。 「おい、健太!どんだけ開け閉めすんだよ!ドアが冷気で風邪ひくわ!」 一郎のぶっきらぼうな声に、健太は反発する。 「うるせえな!別にいいだろ、別に!」 失業してからというもの、一郎は些細なことにも過剰に反応するようになっていた。健太もまた、父親の無職ぶりと、それに伴う家中のピリピリした空気に、戸惑いと反発を感じていた。父親が家にいるのが、かえって息苦しかった。
冷蔵庫を巡る冷戦は、食卓の雰囲気にも暗い影を落とした。花子は、夫と息子の間の緊張に心を痛めながらも、どうすることもできなかった。 「健太、もうちょっと静かに開けなさい」 花子の言葉も、二人の間では空回りする。 一郎は、健太の乱暴な冷蔵庫の開け閉めに、失われた「家庭内での役割」や「経済的立場」への苛立ちを重ねていた。冷蔵庫から冷気を逃がすことは、まるで自分が家庭に貢献できなくなったことの、象徴のように思えたのだ。
一方、健太は父親の様子がおかしいことに、漠然とした不安を感じ始めていた。 「父さん、最近ため息ばかりついてるな…」 「冷蔵庫の前でずっと立ってるけど、何してるんだろう?」 健太は、父親が何かに悩んでいるらしいことは感じ取っていたが、どう声をかけていいのか分からなかった。ただ、父親が以前のように笑わないことが、寂しかった。
ある夜のことだった。健太が、そっと冷蔵庫を開け、何かを取り出しているのを一郎は目撃した。まただ、と一郎は怒鳴ろうとした。しかし、健太が取り出したのは、一郎が一番好きな抹茶アイスだった。それも、健太が自分で買ってきたものらしい。 「…お父さんの分も買ってきたんだ」 健太は、少し照れくさそうに言った。 「食費、節約しなきゃいけないのに、アイスなんて買っちゃってごめん。でも、お父さん、元気ないから…」 健太は、食費節約のためにアイスを買うのを我慢していたことを打ち明けた。一郎は、健太の優しさと、それに気づかず怒っていた自分に、激しい衝撃を受けた。自分が、いかに息子を理解していなかったか。そして、息子が自分を、どれだけ気遣ってくれていたのか。
その夜、一郎は健太の部屋を覗いた。机の上に、健太が買ってきたアイスのレシートが置いてあった。「お父さんの好きなアイス、また買っちゃった」と、走り書きされたメモと共に。 一郎は、自分の「精神」的な病、つまり無気力さや、些細なことへのイライラが、家族との関係を悪化させていたのだと痛感した。冷蔵庫の開け閉めという些細な出来事の裏には、家族が互いを思いやる、温かい気持ちが隠されていたのだ。一郎は、健太の優しさという名の「暖気」に、凍てついていた心が溶かされていくのを感じた。
「健太…ありがとう」 一郎は、健太を強く抱きしめた。健太も、戸惑いながらも、父の抱擁に応えた。家中の「冷戦」は、ようやく終わりを告げた。それは、熱い言葉ではなく、静かな、しかし確かな絆の温もりだった。
数日後、一郎は新しい職を見つけた。家族で食卓を囲む。冷蔵庫の開け閉めの音は、以前と変わらず聞こえる。しかし、もうそこには冷戦はない。失業は辛かったが、家族の絆の大切さを改めて学べたと、一郎は感じていた。
健太が、一郎の好きなプリンを冷蔵庫から取り出し、一郎に差し出した。 「お父さん、これ、どうぞ」 一郎は、健太の頭を優しく撫でながら言った。 「お前も一つどうだ?」 「うん、ありがとう!」 健太は、満面の笑みで答えた。窓の外には、穏やかな夕日が、家全体を暖かく照らしていた。それは、彼らの新しい日常の始まりを告げる、温かい光だった。