最後の晩餐
ダイニングテーブルには、健一が丹精込めて用意した特別なウイスキーのグラスが二つ。琥珀色の液体が、食卓の柔らかな照明を吸い込んで、艶めかしく輝いていた。 「健一ったら、ありがとう。私のためだけに、こんな素敵なウイスキーを」 妻の由紀は、甘えるような声で健一に微笑みかけた。その笑顔は、まるで磨き上げられた宝石のように完璧で、健一は満足げに頷く。 「君が喜んでくれるなら、それでいいんだよ」 健一は、妻に尽くす夫を演じることに、どこか誇らしささえ感じていた。表面上は、絵に描いたような円満な夫婦の夕食風景。だが、その会話の端々には、微かな、しかし無視できないぎこちなさが漂っていた。
健一はグラスを手に取り、ゆっくりと口に含んだ。芳醇な香りが鼻腔をくすぐり、喉を伝う熱が心地よい。 「あら、それ。健一が一番好きなやつでしょ?」 由紀の声が、背後からするりと伸びてきた。健一は、グラスを置く手が微かに止まった。妻が、自分の好みを、ここまで細やかに把握していることに、言いようのない不快感が募る。まるで、自分の内側を覗かれているような、そんな感覚。 「ええ、まあ。君も好きな銘柄だろう?」 健一は努めて平静を装い、返した。 「私? ううん、私は健一の好きなものが好きなだけ。だって、私、あなたのためなら何でもするから」 由紀は、さらに甘えるように囁いた。その言葉は、健一の心に、見えない網が静かに、しかし確実に張られていくような感覚をもたらした。妻の献身は、愛情という名の、見えない監視の目のように健一を捉え始めていた。
健一は、妻の過剰なまでの献身を、どうにか「愛情」として受け止めようと試みた。だが、そのあまりにも完璧な「あなたのためなら」という言葉は、次第に健一の自由を奪う息苦しい鎖のように響き始めた。妻の行動すべてが、自分のために計算され尽くした、巧妙な支配ではないかと疑い始めたのだ。完璧な妻の笑顔は、健一の意思を奪うための、冷たい演技にしか思えなくなっていた。
この息苦しさから、逃れたい。 健一の心は、妻の愛情という名の網から、必死に抜け出そうともがいていた。反発したい。だが、由紀の、潤んだ瞳で見つめられると、何も言えなくなる。その時、玄関のチャイムが、唐突に響いた。 ピンポーン。 健一の心臓が、一瞬、跳ね上がった。これは、チャンスかもしれない。この、妻の支配から、一時でも逃れられるかもしれない。そんな、溺れる者が藁にもすがるような、切実な期待が、健一の胸に灯った。
健一は、期待に胸を膨らませながら、玄関へと向かった。ドアを開けると、そこには宅配業者。そして、その手には、見慣れた箱が握られていた。 「健一様宛にお荷物です」 健一は、箱を受け取り、リビングへと戻った。由紀が、健一の後ろから、満面の笑みで声をかける。 「あら、届いたのね! あなた、これ好きでしょ? 私がこっそり注文しておいたのよ」 由紀が指差す箱には、健一が愛してやまない、あの特別なウイスキーの銘柄が記されていた。
その瞬間、健一は全てを悟った。自分が、妻の「愛情」という名の支配に、無自覚のうちに操られていたのだ。妻の献身は、すべて健一を繋ぎ止めるための、計算された鎖だった。そして自分は、その鎖から逃れようとするどころか、むしろその鎖を喜んで受け入れていたのだ。妻の「愛」という名の檻から、永遠に逃れられない。健一は、虚無感に苛まれ、ただ立ち尽くすしかなかった。人間関係における愛情という名の支配欲と、それに無自覚に囚われ続ける人間の滑稽さ、そして絶望。健一は、妻の「愛」という名の檻から永遠に逃れられないことを悟り、虚無感に苛まれる。