最後のフライト、消えた約束
錆びついた鉄骨が、夕暮れの空に無残なシルエットを描いている。ハルは、もう何年も使われていない、この寂れた地方空港の管制塔跡地に立っていた。風が埃を巻き上げ、かつて賑わいをみせたであろう場所は、今はただ静寂に包まれている。ここに、アオイという少女がいた。僕の、たった一人の光が。
「いつか、あの星まで一緒に行こうね」
彼女は、あの夏の日の夜、満天の星空の下でそう言った。そして、僕が最も愛した彼女は、この空港から飛び立つ、見たこともないような特別な飛行機に乗って、どこかへ行ってしまったのだ。それ以来、僕はこの場所を離れられない。
アオイが消えた日の記憶は、まるで霧がかかったように曖昧だ。ただ、彼女の言葉だけが、鮮明に耳の奥にこびりついている。「きっとまた会える、この消防車が呼んでくれるから」。
空港の片隅に、一台の古い消防車が、無惨に錆びつき、放置されていた。アオイがいつも「私の秘密基地」と呼んでいた場所だ。彼女は、この無機質な鉄の塊に、どんな意味を見出していたのだろうか。
僕は、アオイとの思い出が染み付いた空港を、もう一度ゆっくりと歩き回った。管制塔の窓から見下ろした、ひび割れた滑走路。彼女が最後に立っていた場所。あの日の光景が、風に乗って蘇ってくるようだ。
ふと、どこからか水の音が聞こえてきた。それは、空港のどこかにあるはずのない「浴室」から響いているような、不思議な音だった。アオイが、照れくさそうに「私だけのお風呂」と言っていた、あの場所。
音を辿るように、僕は消防車へと近づいた。車体の錆びた扉に手をかけると、それは驚くほどスムーズに開いた。内部は、薄暗く、そしてどこか懐かしい匂いがした。そして、その奥に、信じられない光景が広がっていた。
そこは、まるでアオイと初めて会った日の、あの不思議な浴室だった。湯気が立ち込め、柔らかな光が満ちている。浴室の真ん中には、アオイが一人、静かに座っていた。
「アオイ……?」
彼女はこちらに顔を向け、あの頃と変わらぬ、優しい笑顔を浮かべた。
「大丈夫、あなたは一人じゃない」
その声は、あの日のように、僕の心を温かく包み込んだ。
消防車は、ただの乗り物ではなかったのだ。アオイの不思議な力と結びつき、時間という概念さえも超えて、僕たちを繋ぐ「扉」だった。彼女は、時間から切り離されたこの「浴室」で、ずっと僕を待ち続けてくれていたのだ。
「ごめん、ハル。待たせてしまったね」
アオイはそう言って、僕に手を差し伸べた。しかし、その指先は、僕の手には届かない。まるで、ガラス越しに触れているかのようだ。彼女は、僕たちが「いつか、あの星まで一緒に行こう」と約束した、あの夏の日から、一歩も進めずにいたのかもしれない。
消防車が、再び微かに動き出した。サイレンのような、切ない風が吹き抜ける。
「ハル、行かなきゃ。でも、また会える。きっと」
アオイの姿が、湯気の中に溶けていく。僕は、彼女の手を握ることができないまま、ただ、その消えていく背中を見つめていた。
アオイは、消えたのではなかった。時間の中で、迷子になっていただけなのだ。そして、彼女は、僕がここに来ることを、ずっと信じて待っていてくれた。
僕は、浴室から現実の空港へと引き戻された。夕暮れの空は、さらに深い紫色に染まっている。管制塔の窓から、僕はアオイのいるであろう、空の彼方を力強く見つめた。
「待ってて、アオイ。いつか、必ず、君のいる場所へ行くから」
約束は、まだ終わっていない。失われたと思っていた時間や人が、形を変えて僕の中に生き続けていることを、今、確かに感じている。消防車のサイレンのような、切ない風が、僕の頬を撫でていった。それは、別れの風ではなく、始まりの風のように思えた。