信号のない横断歩道
祝日の午後、退屈な空気が街を包み込んでいた。佐伯佳織は、夫の買い物に付き合い、愛用の自転車で近所のスーパーへ向かっていた。夕暮れが近づき、空気はひんやりとしている。車輪がアスファルトを漕ぐ音だけが、静寂を破る。
「佳織、もう少し早く準備してくれないか」
夫の声は、いつものように冷静だが、その響きには微かな苛立ちが滲んでいた。横で並走する夫の自転車から、そんな言葉が投げかけられる。
「ごめんなさい、すぐに準備したつもりだったんだけど…」
佳織は、自転車のハンドルを握りしめながら、小さく謝った。夫の言葉に、また「気配りが足りない」と言われた気がして、内側で何かが軋む。温厚で控えめな性格の自分は、常に他者の評価を気にしていた。夫にだって、できる限り喜んでもらいたい。なのに、どうしていつもこうなってしまうのだろう。
スーパーでの買い物も、夫の指示通りに商品をカゴに入れ、レジに並ぶ。夫の背中を見ながら、佳織はただ、早くこの時間が終わることを願っていた。言葉にできない不満と、夫への屈辱感。しかし、それを口に出す勇気は、彼女にはなかった。
帰り道、スーパーの裏手にある、信号のない横断歩道で立ち止まった。車は途切れることなく、ゆっくりと通り過ぎていく。その歩道の中央に、小さな子供が一人、きょとんとした顔で立ち尽くしていた。男の子か女の子かも判別できないほど幼いその子供は、まるで迷子になったかのように、ただそこにいるだけだった。
「危ない…」
佳織は、思わず声をかけようとした。だが、その瞬間、夫の「気配りが足りない」という言葉が脳裏をよぎる。この子に声をかけることで、夫にどう思われるだろうか。夫は、この子供の親にでも話しかけているとでも思うのだろうか。そんな考えが頭を巡り、佳織はタイミングを逸してしまった。無言のまま、ただ立ち尽くす。
「あら、子供が危ないわね」
その時、背後から聞き慣れた声がした。近所の主婦、伊藤裕子だ。世話好きで社交的だが、その裏には常に計算と皮肉が隠されている。裕子は、佳織の隣に並ぶと、優しくも有無を言わせぬ口調で続けた。
「あなた、いつもそうやって見てるだけでしょ? 夫にでも言われてるんじゃないの? ほら、あなたが行かないと、この子どうなっちゃうの?」
裕子の言葉は、佳織の心臓を直接鷲掴みにした。佳織の無関心さと無能さを責め立てるようなその言葉に、佳織は顔を上げることができない。夫の顔、裕子の顔。二つの視線が、自分を射抜いているように感じた。
追い詰められた佳織は、意を決して子供の傍に歩み寄った。どうすれば良いのか、頭が真っ白になる。夫の視線、裕子の視線。それを感じながら、佳織は子供の小さな肩にそっと手を伸ばした。そして、子供を抱き上げて、向こう岸まで連れて行こうとした、その瞬間。
「いや!」
子供が、佳織の腕の中で突然、激しく抵抗した。まるで、見慣れないものに触れられたかのように、嫌悪感を露わにする。佳織の手からすり抜けた子供は、そのまま、車の流れの中に飛び出そうとした。
「きゃあっ!」
佳織は悲鳴を上げ、必死で子供を追いかけた。車のヘッドライトが、彼女の恐怖を照らし出す。なんとか、子供の服の裾を掴み、その小さな体を引っ張った。子供の抵抗は、先ほどよりもずっと激しかった。
その様子を、裕子は薄く笑みを浮かべながら、冷ややかに見つめていた。
結局、子供は佳織に引き止められた後、まるで何事もなかったかのように、彼女の手から離れ、一人で横断歩道を渡りきってしまった。何が起こったのか、佳織には理解できなかった。子供を抱き上げようとした自分の行動が、子供を危険に晒しただけだったのか。それとも、裕子の言葉に踊らされただけだったのか。その意味を見失い、佳織は呆然と立ち尽くした。
「ほら、やっぱりあなたじゃダメだったわね。もっとしっかりしないと、誰も助けてくれないわよ」
裕子は、嘲るような笑みを最後に、そう言い残して去っていった。信号のない横断歩道には、子供が落としたらしい、無残に汚れた靴下が片方だけ、ぽつんと残されていた。佳織は、その靴下を拾うこともできず、ただそこに立ち尽くす。遠く、夫の自転車のテールランプが見える。彼女の頭の中を巡るのは、これからどうすれば良いのか、誰に何を思われるのか、そればかりだった。