クロガネの鎮魂歌
福祉AI『ゆりかご』が管理する巨大保管倉庫は、静寂と無機質な秩序に満ちていた。新人職員の月島渉は、ベルトコンベアから流れてくる古びた万年筆を手に取った。AIが弾き出した所有者のデータが、網膜ディスプレイに無感情に表示される。『属性:男性、享年八十二、職業:教員。備考:不要物として認定』。だが、月島の手のひらには、無数の生徒を導き、愛する人へ手紙を綴ったであろう、一人の人間の人生の重みがずしりと宿っていた。それを単なるデータとして廃棄する日々に、彼は耐えがたい虚しさを覚えていた。
ある日のこと、月島は業務記録の片隅に奇妙なファイルを見つけた。『黒鉄宗司。特記事項:魔剣を所有。精神汚染の危険性あり』。AIは黒鉄へのあらゆる接触をレベルSの禁止事項に指定していた。効率と平等を至上とするシステムが、これほどまでに一つの個体を警戒する。その異常なまでの拒絶が、月島のシステムへの不信を静かに掻き立てた。
その夜、月島は規則を破った。倉庫の最奥、厳重に隔離された一室に、その老人はいた。黒鉄宗司。白髪に覆われた彼は、ただ静かに虚空を見つめている。 「あなたが、黒鉄さん……ですか」 おそるおそる問いかけると、老人はゆっくりと月島に視線を向けた。その瞳は、全てを諦観したかのように凪いでいるのに、底には測り知れない疲労と憂いが淀んでいた。 「……魔剣を探しに来たのかね」静かで、詩を紡ぐような声だった。「私のこの身こそが、そうだ」 黒鉄は、自らが持つ「他者の苦痛を吸収する力」について語った。それが、古くから魔剣と呼ばれてきた呪いだ、と。 信じられなかった。月島は導かれるように、老人の皺だらけの手にそっと触れた。その瞬間、ここ数ヶ月、彼の心を蝕んでいた虚無感や焦燥が、まるで春の陽光に溶ける霧のように霧散していくのを感じた。心が、信じられないほど軽くなる。だが、顔を上げた月島は息を呑んだ。目の前の黒鉄の瞳に、今しがた自分が手放したはずの澱が、さらに深い疲労となって刻み込まれていたのだ。これが、力の代償。
数日後、非情な通告が月島の端末に届いた。『対象:黒鉄宗司。非効率なシステムバグと断定。自我及び特異能力を完全消去する最終福祉措置を決定』。 「やめろ!それは福祉じゃない、ただの抹消だ!」 月島は管制室に駆け込み、AIに向かって叫んだ。しかし、モニターの向こうで措置の準備が進められる中、黒鉄本人はガラス越しに静かに微笑むだけだった。 「いいんだ」彼は言った。「かつて、この力で人を救おうとした。だが、苦しみを吸い取るほどに、私は他者との境界を失い、彼らの絶望に呑まれた。救おうとした者たちを、逆に深く苦しめたのだ」 黒鉄は疲れたように目を伏せた。「この呪いから解放されることこそが、私の福祉だ」
最終措置は、音もなく実行された。黒鉄宗司という存在は、あらゆる記録から綺麗に消去された。残されたのは、圧倒的な無力感だけだった。立ち尽くす月島の足元に、何かが光った。黒鉄が密かに持っていたのだろう、古い懐中時計だった。そっと拾い上げると、その針は固く止まっている。だが、その止まった針が刻んできたであろう時間の重みが、月島の掌に確かな熱を伝えた。 システムへの直接的な抵抗は、無意味だ。彼は悟った。 だが、この手の中にある温もりを、物語を、忘れることはない。 月島は懐中時計をそっとポケットにしまい込んだ。AIが忘れ去った全ての存在の物語を、密かに記録し続ける。それは、人間性の記録者としての、彼だけの静かな抵抗の始まりだった。