聖杯と祖母の味

都会の喧騒から逃れるように、里奈は故郷の駅に降り立った。祖母が倒れたという知らせは、まるで遠い世界の出来事のように感じられた。しかし、見慣れたはずの古びた一軒家の玄関を開けると、そこには確かに、以前とは違う、静まり返った空気が漂っていた。

「おばあちゃん?」

リビングの隣の部屋から、かすかなうめき声が聞こえる。ベッドで横たわる祖母は、窓からの光を浴びて、いつもよりずっと小さく見えた。里奈がそっと手を握ると、祖母はゆっくりと目を開けた。その瞳に宿るはずの、いつもの力強い光が、一瞬、ぼやけているように見えた。

「…里奈…?」

その問いかけるような声に、里奈の胸はきゅうっと締め付けられた。祖母は、里奈のことを、一瞬、忘れてしまったのだ。まるで、自分の存在が、祖母の記憶から薄れていくような、そんな恐ろしい感覚に襲われた。ぽっかりと開いた心の穴に、不安が静かに染み込んでいく。

「おばあちゃんの好きな、煮物でも作ろうかしら」

祖母の世話をしながら、里奈は広々としたキッチンに立った。都会のアパートにはない、ゆったりとした空間。でも、今はその広さが、かえって里奈の孤独を際立たせるようだった。祖母がよく作ってくれた、あの優しい味。レシピは、頭の中ではっきりとは思い出せない。

「ええと、だしは…こんぶと…かつおぶし…?」

鍋に野菜を放り込み、調味料を加えていく。何度か味見をしたが、どうにもしっくりこない。焦げ付かせそうになり、ため息をついた。

「だめだわ…」

その時、ベッドから祖母の声がした。

「お前、何してるんだい?」

「…煮物、作ろうと思って。おばあちゃんの好きな…」

「ふむ。味見させてみろ」

里奈は、恐る恐る鍋を祖母の元へ持っていった。一口、口に運んだ祖母は、しばらく無言で、その味を確かめるように目を閉じていた。

「…まあ、悪くないがね。もっと、こう…」

祖母は、指先で鍋の縁をなぞるような仕草をした。そして、ふと、遠い目をして呟いた。

「昔、お前のおじいちゃんがね、この鍋のことを『聖杯』って呼んでたんだよ。聖杯、ってね」

「聖杯…?」

里奈はその言葉に、なぜか強く惹かれた。祖母の口から語られる、祖父の記憶。それは、里奈がほとんど知らない、遠い過去の断片だった。

里奈は、祖母の部屋の片隅に置かれた、古い木箱に目が留まった。埃をかぶったアルバム。開いてみると、そこには、若い頃の祖母と祖父の写真が収められていた。そして、一枚の写真に、里奈は息をのんだ。

そこには、祖母が今使っているのと同じ、年季の入った鍋が写っていた。鍋を囲むようにして、祖母と祖父が、満面の笑みで写っている。祖父は、その鍋を指さし、まるで何かを語りかけているかのようだった。その表情は、まるで鍋に宿る温かい記憶を、未来の誰かに託しているかのようだった。里奈は、祖母が言っていた「聖杯」の意味を、ほんの少しだけ、理解できたような気がした。

「聖杯…」

里奈は、台所に戻り、あの鍋を手に取った。それは、ただの鍋ではない。家族の温かい食事と、たくさんの思い出が詰まった、かけがえのない「器」なのだ。祖母が「聖杯」と呼んだ、その理由が、今ならわかる気がした。

里奈は、祖母の得意料理である、豚汁を再び作ることにした。今度は、あの「聖杯」で。野菜を切り、丁寧に煮込んでいく。じんわりと広がる、温かい出汁の香り。

「おばあちゃん、できたよ」

里奈が作った豚汁を、祖母はゆっくりと口に運んだ。そして、顔を上げた祖母の表情が、ぱっと明るくなった。

「里奈、よくできたね」

その言葉と共に、祖母の瞳が、里奈をしっかりと捉えた。その瞳には、迷いのない、温かい光が宿っていた。里奈は、祖母が自分を、ちゃんと認識してくれている、その事実に、胸がいっぱいになった。

祖母は、日ごとに回復していった。里奈は、実家で祖母と穏やかな時間を過ごしている。今日は、祖母が昔よく作ってくれたという、りんごのコンポートを一緒に作っている。あの「聖杯」を使いながら。

「おばあちゃん、このりんご、甘くて美味しいね」

「そうだろう。これも、お前のおじいちゃんが好きだったんだよ」

祖母は、そう言って、里奈の頭を優しく撫でた。二人の間には、言葉にならない温かい空気が流れている。失われた記憶の欠片を拾い集めるように、二人は料理を通して、ゆっくりと絆を深めていく。あの「聖杯」は、これからも、この家族の温かい食卓を、静かに、そして確かに支え続けていくだろう。それは、ほろ苦くも、温かい、確かな余韻を残しながら。

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