塔の上の産休

産休に入り、塔での管理業務を一時的に離れたエリ。それでも、彼女は塔から離れることができなかった。人里離れた高台に建つ古びた観測塔。最低限の設備しかないが、清潔に保たれたその空間で、彼女は静かに日々を過ごしていた。窓の外には広大な平野と、遠くに海が見える。外界との連絡は最小限にしていた。窓から見える景色が、彼女にとって唯一の「外」との繋がりだった。

ある朝、エリはいつもと変わらない朝日を塔の窓から迎えた。しかし、その日の朝日が、これまでのものと何かが違うことに気づく。いつもより赤みがかった光。空気の密度が変わったような、微かながら異質な変化を感じ取った。彼女は冷静に観測機器をチェックするが、異常は見当たらない。それでも、その違和感は払拭されなかった。まるで、世界そのものが息を潜め、新たな何かを待っているかのようだった。

数日後、エリは塔の最上階にある、普段は使われていない古い観測装置に触れた。それは、かつて星間物質を観測するために使われていたという伝説の装置だった。過去の記録には、この装置が微弱な宇宙線の変動を捉えることで、未知の現象を観測したという記述があった。妊娠による身体の変化が、この装置に何らかの影響を与えているのではないか。あるいは、彼女自身の内なる変化が、外界の些細な変化を増幅して感じさせているのかもしれない。どちらにせよ、この装置に触れることで、彼女は自身の変化と外界の変化の繋がりを探ろうとしていた。指先から伝わる冷たい金属の感触が、不思議と彼女の胎動と共鳴するように感じられた。

ある晩、エリは遠くの空に、これまで見たこともない奇妙な光を目撃した。それはゆっくりと移動し、やがて水平線の彼方へと消えていった。科学的な説明がつかないその光景に、エリは苛立ちを覚える一方で、不思議な安堵感を得た。それは、彼女自身の「産休」という、未知への移行期間と重なるように感じられた。新しい命を迎える準備期間であると同時に、彼女自身もまた、未知の領域へと移行していくかのようだった。腹部の膨らみと、空に浮かんだ不可解な光が、彼女の中で一つの出来事として結びついていく。

数週間後、エリは無事に出産した。子供を抱き、再び塔の窓から朝日を眺める。空は以前と変わらないように見えるが、エリの目には、その光の中に、あの奇妙な光の残滓が宿っているように感じられた。塔の管理業務は、新しい命と共に、静かに続いていく。外界の些細な変化も、彼女の内なる変化も、全ては「静寂」という名の「変化」の一部として、エリの心に溶け込んでいく。塔は、ただそこに在り続け、朝日は、ただ昇り続ける。それだけのことだった。世界は静かに、しかし確かに、新しいリズムを刻み始めていた。

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