終末の勇者

埃っぽい部屋の片隅で、アキラは画面に齧り付いていた。映し出されているのは、もう何年も前の、家族の温かい笑顔だ。母の朗らかな笑い声、父の優しい眼差し、そして幼い妹の無邪気な輝き。疫病がこの街を蝕み、全てを奪い去る前の、あの輝かしい日々。アキラはその動画を何度も編集し、SNSに投稿することで、失われた光の残滓にしがみついていた。この荒廃した世界で、過去の断片だけが、彼を繋ぎ止める唯一の糸だった。編集ソフトの無機質な光が、彼の青白い顔を照らしている。希望。それは、いつかまた、あの頃のような日々が戻ってくるという、淡く、そして恐ろしい幻想。

ある夜、いつものように動画をアップロードした直後、見慣れないアカウントからコメントが付いた。「勇者」。その無機質な二文字が、画面に浮かび上がった。コメントの内容は、さらに奇妙なものだった。「この動画には、我々を救う鍵がある」。アキラは眉をひそめた。救う? 誰が? 何から? 半信半疑ながらも、その「勇者」と名乗る人物からの指示に従い、動画の隅々まで検証し始めた。隠されたメッセージ。それは、都市の地下深くに眠る、かつて研究所だった場所を示唆していた。希望の囁きか、それとも更なる絶望の入り口か。

「勇者」の導きに従い、アキラは瓦礫と化した都市を彷徨った。錆びついた鉄骨が剥き出しになり、崩れかけたビルが墓標のように立ち並ぶ。かつての喧騒は、今はただ虚無の風の唸りだけが響いていた。研究所は、地下深く、重厚な鋼鉄の扉の奥に隠されていた。扉を開けると、そこには無菌室のような、不気味な静寂が広がっていた。そして、そこで彼は、世界を根底から揺るがす真実を知ることになる。「勇者」――その正体は、この疫病を人為的に開発した張本人だったのだ。アキラの動画に執着したのは、映像の中に映るアキラの家族が、この致死的な病原体に対する未知の抗体を持っていたから。彼は、アキラの家族の血液サンプルがあれば、新たなワクチン、あるいはそれ以上の何かを「人類の未来のため」に開発できると語った。その言葉の裏に潜む、歪んだ執着と底知れぬ狂気が、アキラの背筋を凍らせた。

「勇者」は、アキラにさらに衝撃的な映像を見せた。それは、アキラの家族が、自らの意思で、この未知の抗体を提供しようとしている記録だった。しかし、その映像の奥底には、さらに恐ろしい真実が隠されていた。「勇者」は、この抗体を利用して、新たな疫病を創造し、あるいは人間の意識を操作しようとしていたのだ。アキラが家族の温もりを求めて必死に編集し、SNSに投稿していた動画。それは、家族の悲劇の真相を暴き、そして自らを破滅へと導くための、皮肉な道具でしかなかった。希望を求めていたはずが、それは自らの手で絶望の淵を覗き込む行為だったのだ。アキラは、全身から力が抜けるのを感じた。

アキラは、研究所の闇から逃れた。しかし、それは逃亡ではなく、一時的な猶予に過ぎないことを彼は知っていた。「勇者」は、もうすぐそこまで来ている。アキラは、研究所から持ち出した、家族の最後の映像データが収められたUSBメモリを、強く握りしめた。これは、家族が彼に残した最後の「希望」なのか。それとも、彼をさらなる深淵へと引きずり込むための、悪魔の導きなのか。答えは、まだ見えない。彼は再び、廃墟と化した街の無数の墓標の間を彷徨い始めた。空を見上げても、かつてのような希望の光は、もうどこにも見当たらない。ただ、彼に残されたのは、家族の記憶を紡ぎ、世界に発信し続けるための、動画編集という歪んだ「力」だけ。その力が、彼をどこへ連れて行くのか、アキラ自身にも、そしてこの世界にも、もう誰にも分からなかった。

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