白蛇の華
地方都市の空は、かつての青さを失い、煤けた灰色に覆われていた。コンクリートの巨人が土地を貪るように聳え立ち、かつては鳥のさえずりで満ちていたであろう空気は、排気ガスの淀みと人工的な騒音で重く淀んでいた。そんな街の片隅で、佐伯菊乃は古びた華道教室の扉を開けた。彼女の代名詞であり、家業の最後の砦である「白蛇の生け花」。それは、生きた白蛇を松や竹と共に大胆に生ける、秘伝中の秘伝。しかし、年々蛇の入手は困難になり、世間の風当たりも冷たかった。それでも菊乃は、この伝統だけは、何があっても守り抜くと誓っていた。
そんな時、都会から孫の神崎悟が戻ってきた。彼は新進気鋭の建築家であり、その手腕は冷徹な合理主義に裏打ちされていた。悟は、祖母の華道教室が建つ土地こそが、自身の野心的な高層ビル建設にうってつけの場所だと見抜いていた。「おばあ様、いつまでそんな時代錯誤なことをなさっているんですか」悟は、埃をかぶった生け花用の道具を眺めながら、鼻で笑った。「この土地を最新鋭のビルに建て替えれば、どれほどの利益が生まれることか。そんな古い文化に、一体どれほどの価値があるというのです?」菊乃は、その言葉に激昂した。「これは単なる古い文化ではない!この土地に息づく、魂そのものなのだ!お前のような、金銭欲に目が眩んだ者に、この神聖なものを冒涜させるわけにはいかない!」しかし、悟は祖母の言葉に耳を貸そうとはしなかった。彼は都市開発の波に乗り、次々と古い建物を更地へと変えていった。菊乃の華道教室も、その無慈悲な計画の標的となっていた。
焦燥感に駆られた菊乃は、最後の「白蛇の生け花」を完成させるべく、禁断の手段に手を染めた。闇ルートで入手した、一際巨大で禍々しい白蛇。彼女は、その白蛇を、古木に絡みつくように、まるで大地から湧き上がる妖しい生命力そのものであるかのように、丹精込めて生けていった。完成した作品は、異様なまでの迫力と、人の心をざわつかせるような妖しい美しさを放っていた。展示会当日。悟は、開発計画の最終承認を得るため、有力な取引相手を招いた祝宴を、まさにこの華道教室の隣にある広場で行おうとしていた。菊乃は、その祝宴の最中、震える手で完成した「白蛇の生け花」を運び込んだ。
「見なさい!」菊乃の声は、会場に響き渡った。「これが、この土地に宿る真の力だ!」彼女は、作品から白蛇を解き放った。白蛇は、会場を這い回り、招待客たちの悲鳴を誘った。その混乱の中、白蛇は悟が手にしていた開発計画の最終承認書類に食らいつき、無残に引き裂いた。悟は顔を真っ赤にして白蛇に掴みかかった。「この、化け物が!」彼は白蛇を撲殺しようとしたが、白蛇は最後の力を振り絞るように、悟の腕に噛みついた。そして、菊乃の腕の中で、その巨体を震わせ、事切れた。「これで、この土地は守られた…」菊乃は、静かに微笑んだ。しかし、その微笑みはすぐに歪んだ。白蛇の死骸からは、かつてないほどの強烈な悪臭が放たれ始め、会場全体に広がっていった。それは、死んだ白蛇の怨念、あるいは、開発によって奪われた自然の怒りのようだった。菊乃は、その悪臭に包まれながら、虚ろな目で呟いた。「これで、本当に守られたのかしら…」悟は、まるで毒に侵されたかのように苦しみだし、菊乃の傍らで倒れた。会場は、白蛇の腐敗臭と、それに群がる無数の害虫、そして菊乃と悟の呻き声で満たされていった。