夏の終わりの天ぷら

「ねえ、ケンタ君。これ、お母さんが揚げたてだって。熱いうちにね!」夏の終わりの蝉時雨の中、ハルカは手作りの天ぷらをケンタに届けに行く。日差しはまだ強いけれど、風にはどこか秋の気配が混じり始めている。夕暮れ時の海沿いの町は、夏の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

ケンタは、錆びついたトラックの荷台に、くたびれたスーツケースを積み込んでいるところだった。「……で、これ、どうすんの。俺、もうすぐ出発なんだけど」ぶっきらぼうな返事の中に、ハルカは特別な空気を嗅ぎ取る。まるで、この町との別れを告げる儀式に立ち会っているような、そんな静かな覚悟のようなもの。

彼女の胸には、伝えたい言葉がいくつも渦巻いていた。演劇部で培った表現力をもってしても、この胸の内を、あの男にどう伝えればいいのだろうか。

「ねえ、覚えてる?あの花火大会。浴衣、水色だったよね」ハルカは、ケンタに昔の思い出を語りかける。あの時、ケンタはいつもよりずっと真剣な顔で、自分を見ていた気がする。イヤリングにしようか、髪飾りはどうしようかと迷っていた自分に、「浴衣、似合ってる」と、ぽつりと呟いてくれた。あの声、あの表情。

ケンタは、その時のハルカの浴衣の色を鮮明に覚えていた。「……ああ、覚えてる」その一言に、ハルカは町を出る前に自分の気持ちを伝えようと決意を固める。このまま、伝えずに見送るなんて、そんな悲しい結末は、彼女の脚本にはない。

しかし、ケンタは「俺、明日から町を出るんだ」とだけ告げ、それ以上は何も語らない。まるで、それ以上の言葉は、この空気にはそぐわないかのように。ハルカは、彼が自分の気持ちに気づいているのか、それとも全く気にしていないのか、分からなかった。でも、きっと、気づいているはず。あの頃のように、私の言葉にならない声も、きっと聞いているはずだ。

ハルカは、ケンタが町を出るトラックに乗り込む直前、必死に駆け寄る。手に持っていた天ぷらは、もう冷めてしまっていた。衣はしんなりとして、かつてのサクサクとした食感は失われている。それでも、それは紛れもない、母の愛情と、自分の想いの証だった。

「ケンタ君!私……私、ずっと……!」言葉が喉につかえる。舞台の上なら、どんなに感情を込めても、観客に届くように声を出せるのに、今、この現実の前では、言葉が砂のように指の間からこぼれていく。

ケンタは、ハルカの言葉を遮るように、トラックのドアを開ける。その時、トラックのヘッドライトが眩しくハルカを照らし、まるで舞台のスポットライトのようだった。夏の終わりの夕闇に、その光はひときわ強く、彼女の姿を浮かび上がらせる。

「……行ってきます」

ケンタは、ハルカの「好き」という言葉を聞きそびれたまま、トラックに乗り込む。ハルカは、その光の中で、まるで最後のセリフを言うかのように、叫んだ。「ありがとう、ケンタ君!」

トラックは走り去り、ハルカは一人、夏の終わりの夕暮れに取り残される。冷めた天ぷらの衣が、指先で崩れる。ケンタは、ハルカの「好き」という言葉を聞きそびれたまま、遠い町へ旅立っていった。しかし、ハルカの胸には、ケンタの眩しい笑顔と、あの夏の日々が鮮やかに焼き付いていた。それは、彼女自身の「演劇」のワンシーンのように、切なくも、決して消えることのない宝物だった。ケンタは、トラックの中で、冷めた天ぷらをそっと握りしめていた。その温もりは、もう、あの夏の日の熱さではなかったが、それでも、確かに、そこにあった。

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