文楽人形と川辺の園芸師
川沿いの町に、佐伯浩一という名の園芸師が住んでいた。初老の彼の庭は、四季折々の花々が咲き乱れる、さながら色彩の洪水だった。しかし、その鮮やかな庭とは裏腹に、佐伯の記憶は年々霞んでいくばかりだった。愛おしいバラの名前も、いつ植えたかも、まるで他人事のように思い出せない。ただ一つ、妙に鮮明に蘇るのは、川沿いの散歩中に見かけた、古びた文楽人形の、あの寂しげな横顔だった。
「お父さん、またバラの名前、忘れちゃったの?」
都会から訪ねてきた娘の美月が、ため息交じりに言った。佐伯は、なぜかその文楽人形のことが頭から離れないのだが、その理由さえも思い出せなかった。
庭の手入れをしていると、時折、川のせせらぎに混じって、どこからか三味線の音が聞こえてくるような気がした。それはまるで、あの文楽人形が、静かに奏でているかのようだった。ふと、庭の片隅に、奇妙な形の石を見つけた。それは、まるで文楽人形の小道具のようにも見えた。
「お父さん、最近、文楽人形の絵ばかり描いて」
美月が訝しげに言う。佐伯は、人形の絵を描いているという事実さえ、曖昧だった。ある日、近所の老人から声をかけられた。
「佐伯さん、昔は人形浄瑠璃がお好きだったそうですね」
人形浄瑠璃? 佐伯は、全く身に覚えがなかった。
物置の奥から、古いアルバムを見つけた。そこには、若い頃の自分が、愛おしそうに文楽人形を抱いて微笑んでいる写真があった。そして、庭の片隅を掘り起こすと、小さな木箱が出てきた。中には、色褪せた手紙と、古い文楽人形の髪の毛が入っていた。「あの日の約束」「川辺の誓い」――断片的な言葉が並ぶ手紙は、佐伯の記憶の糸を絡ませるばかりだった。
ある日、佐伯はいつものように川沿いを散歩していた。ふと、以前見かけた文楽人形が目に入った。その人形の顔を見て、佐伯の脳裏に、失われた記憶が洪水のように蘇った。それは、かつて妻と共に、文楽人形を自作し、川辺で人形浄瑠璃を演じていた日々だった。妻は、病に倒れる直前、彼にこう頼んでいたのだ。「この人形を、私たちの秘密の場所まで連れて行ってほしい」と。そして、庭で見つけた石は、その「秘密の場所」を示す、妻が込めた特別な目印だったのだ。
佐伯は、物置から、完成途中の文楽人形をそっと取り出した。そして、庭の石の隣に、丁寧に置いた。川のせせらぎを聞きながら、妻との思い出を静かに辿る。物忘れは相変わらずだったが、彼は「大切な記憶」を、園芸と文楽人形という形で、確かに心の中に留めていることを確信した。
美月は、父が人形にそっと語りかける言葉を聞き、その人形が父にとってどれほど大切なものなのかを悟った。父の庭で、父が大切にしている人形と、それを囲むように咲く花々を見て、美月は父の「こだわり」の意味を理解し、静かに微笑んだ。失われた記憶は、愛する人への想いと、長年培ってきた情熱によって、形となって蘇る。佐伯の物忘れは続いていくが、彼にとって「大切なこと」は、決して失われることはないのだ。その静かで力強いメッセージが、花々の香りと共に、静かに胸に広がっていくようだった。