水面の葬送

線香の匂いが厳粛な空気に溶けていく。人々が交わす紋切り型の慰めの言葉は、磨かれたガラスの表面を滑るように、僕の心には少しも届かなかった。兄、海斗の葬式は、まるで現実感のない舞台劇のようだった。儀式が終わり、親族が差し出したのは、兄が宝物のようにしていた古い木製のカヌーだった。そのざらついた手触りだけが、確かな重みを持っていた。

あの日から、僕は亡霊のように湖畔をさまよった。灰色の空を映す水面を眺めていると、不意に兄の面影がよぎっては消える。太陽に向かって屈託なく笑う顔。風が梢を渡る音に耳を澄ませば、それが兄の得意だった口笛の旋律に聞こえる瞬間があった。「気のせいだ」と頭を振っても、その幻聴は心を掴んで離さない。湖の中央に浮かぶ、墓石の点在する小さな島。あの場所へ行かなければならない。このカヌーを漕いで。理由のない、しかし抗うことのできない衝動が、僕の足を水際へと向けさせた。

茜色と藍色が混じり合う夕暮れ時、僕はカヌーをそっと湖に押し出した。パドルが静かな水面を切り裂く。ひと掻きごとに、記憶の奔流が押し寄せた。「悠人、こっちだ!」と手招きしながら、初めて僕をカヌーに乗せてくれた日の兄の声。湖の冷たさと夏の陽射し。その鮮烈な光景の次に浮かぶのは、些細なことで言い争い、背を向けたまま別れた最後の日だ。言えなかった「ごめん」のひと言が、後悔の重りとなって胸に沈む。湖面の揺らぎは僕の心の乱れを映し、深まっていく夕闇は、底なしの喪失感そのものだった。この古いカヌーだけが、兄の記憶と僕を繋ぐ唯一の舟だった。

島は、時が止まったかのような静寂に満ちていた。苔むした墓石の列を通り過ぎ、僕は特定の墓を探すでもなく、ただ水際に座り込んだ。夜の帳が下りた湖面に、自分の顔がぼんやりと映っている。見つめているうち、ふと眉間に皺が寄っていることに気づいた。それは、考え込んだり、苛立ったりする時に兄が浮かべたのと同じ表情だった。その瞬間、時空を超えて兄の眼差しと交わった気がした。言葉など必要なかった。兄は僕の一部になっている。社会的な『葬式』ではなく、この孤独な航海こそが、僕自身が兄に捧げる本当の『葬送』なのだと、すとんと腑に落ちた。

東の空が白み始め、僕は岸へとカヌーを戻した。あれほど荒れ狂っていた心の波は、夜明けの湖面のように静まり返っていた。兄は死んで消えたのではない。この湖に、渡る風に、そして僕の身体に刻まれた仕草の中に、偏在しているのだ。カヌーの縁で、朝露の一粒がきらりと光を弾いた。それはもう悲しみの涙ではなかった。静謐な力に満ちた、未来へと漕ぎ出すための始まりの雫に見えた。

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