育休ノートと小さな裁判

都内の静かな住宅街。週末になると、古民家を改装したカフェは近所の家族連れで賑わう。

佐藤恵は、そんなカフェの窓際席がお気に入りだった。育休中の彼女は、傍らに置いたノートに、生まれたばかりの娘の成長記録を綴る傍ら、日々の出来事や、戸惑いを書き留めている。

「〇〇、今日は初めて寝返りらしき動きを見せました。成長って、本当にあっという間なんだな…」

ペンを走らせながら、恵はふと遠い目をした。夫である高橋健太は、仕事で忙しい。転勤族の彼にとって、この街に越してきたばかりの恵は、頼れる人もなく、日々の孤独と戦っていた。

「健太さん、最近全然話せてないな…。」

ノートには、健太への不満よりも、むしろ自分の伝え方の不器用さや、孤独感が色濃く滲んでいた。「夫が育児に非協力的で…」という言葉は、健太への苛立ちというより、自分の抱えきれない気持ちの表れだった。

ある日、カフェで偶然居合わせた田中陽子に、恵は育児の悩みをぽつりぽつりと打ち明けた。

「一人で抱え込んでいるようで、見ていて心配なのよ。」

世話好きの陽子は、恵の話を熱心に聞いてくれた。しかし、恵が「夫が育児に非協力的で…」と漏らした言葉を、陽子は自身の過去の経験と重ね合わせてしまった。

「あらあら、それは大変ね。うちなんか、夫に育児を押し付けられて、もう大変だったんだから。」

陽子は、恵の言葉の裏に、夫から育児を押し付けられている辛さを感じ取ってしまったのだ。彼女は、地域で開かれる、夫婦間の些細なトラブルを地域住民が話し合って解決する、ささやかな「家庭裁判」のような集まりで、恵の夫・健太に「奥様の気持ちをもっと理解してあげなさい」と進言しようと決意した。

数日後、陽子は恵に声をかけた。

「佐藤さん、近々、旦那さんと一緒に地域の方との話し合いの場に出てもらうことになるかもしれないのよ。」

恵は戸惑った。健太を責めるつもりは毛頭なかった。ただ、自分の抱える孤独や、健太への感謝の気持ちも、ノートに書き連ねていたのだ。

「本当は、健太さんも頑張っている。ただ、伝え方が不器用なだけなのかもしれない…。」

恵の胸の内は、陽子の早合点とは少し違っていた。

話し合いの場当日。カフェの一室に、恵と健太、そして陽子がいた。

「奥様は、育児の大変さを一人で抱え込んでいるようですわ。」

陽子の言葉に、恵は動揺した。自分の意図と違う形で、健太が責められようとしている。しかし、恵は意を決して、ノートを手に取った。

「あの…、健太さんのせいじゃないんです。私が、うまく言葉にできなかっただけなんです。」

恵は、震える声で、ノートに書き溜めていた健太への感謝の言葉や、自身の葛藤を読み上げた。娘の成長、健太の仕事への姿勢、そして、慣れない土地での孤独感。そのすべてを、素直な言葉で伝えた。

読み終えた恵は、健太の顔をまっすぐに見つめた。

健太は、恵の真っ直ぐな眼差しと、ノートに綴られた妻の想いに、自分の無力さと、妻への愛情を改めて痛感していた。

「ごめん。これからは、もっとちゃんと話そう。君の気持ちも、僕の気持ちも。」

健太は、恵のノートをそっと手に取り、そう約束した。

陽子も、自分の早合点が招いた事態に反省し、恵に謝罪した。

カフェの窓際で、恵はいつものようにノートを開く。そこには、「小さな裁判は、私たちを少しだけ強くした。言葉にできなくても、伝わる心があることを知った」と記されていた。

娘を抱きしめながら、恵は、健太との間に生まれた確かな温もりを感じていた。ほろ苦くも、どこか温かい余韻が、カフェの窓から差し込む陽光のように、二人の心を包み込んでいた。

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