水族館の運動会
今年も、あの季節がやってきた。水族館の運動会。佐藤健太は、その言葉を聞くだけで胃が締め付けられるような感覚に襲われた。昨年、玉入れで、文字通り一つも玉を入れられなかった。カゴの上で虚しく踊り続けた自分の姿が、クラスメイトたちの笑い声と共にフラッシュバックする。今年はさらに悪夢だった。リレーの選手に選ばれてしまったのだ。苦手な走りで、アンカーを任されるなんて。健太は、毎年憂鬱を抱えながら、水族館へと足を踏み入れる。潮の匂いと、消毒液のツンとした塩素の匂いが混じり合った、独特の空気が鼻腔をくすぐる。子供たちの歓声が、古びた水族館の天井に反響していた。
運動会当日。健太は、必死に平静を装っていた。額に滲む汗は、緊張のせいだけではない。塩素の匂いが、年々ひどくなっている気がする。毎年、何かの競技で、この匂いにやられてしまうのだ。今年も、あの苦しさを味わうことになるのだろうか。そんな不安が、健太の心を支配していた。最初の競技は、借り物競争。「一番泣いている魚」という、なんとも曖昧なお題が書かれた紙を引いた瞬間、健太は途方に暮れた。泣いている魚なんて、いるのだろうか。彼は、ぼんやりと会場を見回した。そんな時、ふと、巨大なジンベエザメが悠然と泳ぐ巨大水槽の前で立ち止まった。
その、どこかぼんやりとした、大きな瞳。口元が、わずかに下がっているようにも見えた。まるで、悲しみを湛えているかのようだ。健太は、そこに「泣いている魚」を見出した気がした。お題をクリアした安堵感と、ジンベエザメの悲しげな表情が、健太の心を捉えて離さなかった。
そして、ついにリレーの順番が回ってきた。健太は、バトンを手に取った。その瞬間、腹の底から込み上げてくるような、激しい咳き込みに襲われる。ゴホン、ゴホンと、喉がひきつれる。息が、うまく吸い込めない。視界が、塩素の白い霧でぼやけていく。足元がおぼつかず、地面に倒れ込みそうになった、その時だった。
奇妙な感覚が、健太を包み込んだ。まるで、自分が、水槽の中にいるかのような。いや、自分が、魚になったかのような。重力がなくなり、体がふわりと浮く。冷たい水の中を、ゆっくりと漂っている。静かに、しかし確かに、水の中を泳いでいる。耳に聞こえるのは、遠い昔から、そしてこれからもずっと続くであろう、水の音だけだった。それは、彼がずっと恐れていた、塩素による窒息の感覚とは全く異質のものだった。むしろ、心地よい、安らぎのような感覚だった。
健太は、水槽のガラス越しに、外の運動会の様子を見た。自分のクラスメイトが、必死に走っている。アンカーの、あいつが、ゴールテープを切ろうとしている。歓声が、遠くで聞こえる。しかし、健太は、もう、その場にはいなかった。彼は、ジンベエザメの隣で、静かに、しかし永遠に、悲しげな表情で泳ぎ続けていた。水槽の中。そこが、健太の新しい居場所だった。彼の魂は、この巨大な水槽の中で、ジンベエザメと共に、永遠に輪廻することになったのだ。
毎年、この水族館の運動会では、塩素アレルギーに苦しみ、リレーで倒れる少年がいた。そして、その少年は、ジンベエザメの隣で、永遠に泣き続ける魚として生まれ変わる。これは、この水族館に囚われた、幾度となく繰り返される悲劇の始まりに過ぎなかった。運動会は終わり、子供たちは、親に手を引かれて帰っていく。賑やかだった水族館には、静寂が戻る。ただ、ジンベエザメの巨大水槽だけは、かすかに揺らめく照明の中で、二匹の「泣き顔」が、永遠に寄り添うように、ゆっくりと泳いでいる。
健太の母は、運動場に置き忘れられた息子の運動靴を、無造作に拾い集めた。「来年使うからね」と、呟きながら。娘の手をしっかりと握り、彼女は、来年の運動会を、楽しみにしながら、水族館を後にした。水槽の中の、二つの悲しい瞳だけが、その光景を静かに見送っていた。