迷子のドア
夕暮れのネオンが、雨上がりのアスファルトに滲んで、色とりどりの光の洪水を作り出していた。雑踏の喧騒が、アキラの耳元で低く唸る。失われた記憶の断片が、この街のざわめきと、目に映る光の洪水に呼び覚まされる。彼は、擦り切れた革の表紙を持つ、古びたスケッチブックを抱きしめるように歩いていた。旅の記憶、あるいは、そうであってほしいと願う日々の断片が、このスケッチブックには詰まっている。その中に、見慣れない「ドア」の絵があった。それは、ただのドアではなかった。どこかで見たような、しかし、どうしても思い出せない。胸を締め付けるのは、懐かしさというよりも、もっと切実な、失われたものへの郷愁だった。
ふと、路地裏に迷い込むように、古びたカフェに足を踏み入れた。カウンターに並ぶ、懐かしいデザインのサイダー瓶。注文したベリーのスムージーは、鮮やかな紫色をしていた。一口飲む。既視感のある、しかし、やはり思い出せない味。舌の上で転がる甘酸っぱさが、スケッチブックのドアの絵を淡く揺らめかせた。まるで、絵が息を吹き返したかのように。周囲の景色が、五感を揺さぶるように微かに歪む。それは、現実と記憶の境界が曖昧になるような、奇妙な感覚だった。ドアが、この世界に現れようとしているかのように、その存在を主張しているかのようだった。
スムージーの奇妙な甘さと、脳裏に響く記憶の呼び声に導かれるように、アキラはカフェを出た。そして、目の前に、信じられないものが現れた。スケッチブックの絵と、寸分違わぬ「ドア」だった。それは、人々の往来する喧騒の真ん中に、唐突に、しかし、あまりにも自然に存在していた。ドアの向こうには、夕暮れの広大な、しかしどこか見覚えのある風景が広がっていた。夕陽に染まる、見慣れたはずの丘陵地帯。失われた記憶の総てが、あのドアの向こうにある。渇望にも似た衝動に駆られ、アキラは吸い寄せられるようにドアに手を伸ばした。指先が、冷たい金属の取っ手に触れる寸前、彼の脳裏に、一瞬だけ、鮮烈な光景が閃いた。幼い頃、手を繋いで歩いた、あの夕暮れの丘。
アキラがドアに触れた瞬間、耳をつんざくような喧騒は掻き消え、彼の意識は、あの夕暮れの風景へと吸い込まれていく。ドアの向こうには、彼が失った時間、あるいは、もう一つの可能性の時間が、静かに広がっていたのだろう。繁華街には、いつの間にか、ただ人々の喧騒が戻っていた。アキラの姿は、どこにも見当たらない。残されたのは、風にページがめくれる、あのスケッチブックだけ。そして、その表紙の隅に、一瞬だけ現れた夕暮れの風景の、淡く、しかし確かに残る、インクの染みだった。それは、失われた時間と記憶の断片が、現実世界に、静かに、しかし確かに残した、確かな痕跡だった。