潮風のクロノス
幼い頃の記憶は、まるで色褪せたフィルムの断片だ。時折、夏の日の陽射しや、遠い波の音が、脳裏を掠める。だが、それはあまりにも断片的で、全体像を掴むことはできない。蒼井湊、高校二年生。物静かな僕には、その曖昧な記憶の淵に、漠然とした不安が常に付きまとっていた。特に、あの夏の日の記憶。あれは、まるでクラウドストレージに保存されたデータのように、断片的にフラッシュバックするのに、全体像は掴めない。そんなある日、僕は、町の外れにある、古びた天文台に足を踏み入れた。潮風が、埃っぽい空気を洗い流していく。その天文台の片隅で、僕は不思議な形をした「杖」を見つけた。木製で、表面には星屑のような輝きを放つ模様が刻まれている。恐る恐るそれに触れた瞬間、失われた記憶の断片が、堰を切ったように蘇ってきた。それは、僕と、星野雫が、幼い頃にこの天文台で過ごした、ある夏の日の記憶だった。
杖の導きは、僕を失われた記憶の迷宮へと誘った。それは、雫と僕が、この天文台で、夜空を見上げていた時間。いつもは明るく活発な雫が、僕の隣で、どこか物憂げな横顔を見せていた。僕が記憶の断片を辿るにつれて、雫は僕の様子がおかしいことに気づいたようだ。「湊、最近、何かあった?」「ううん、何でもないよ」僕は、杖の存在を打ち明けることができなかった。それは、僕だけの秘密、僕だけの、記憶を取り戻すための、孤独な戦いのように思えたからだ。
しかし、杖が呼び覚ますのは、僕だけの記憶ではなかった。それは、僕と雫が共有していた、もっと神秘的な記憶だった。幼い頃、僕たちは夜空に輝く「星の欠片」を集めていた。そして、その欠片を、この杖に込めていたのだ。雫が持つ不思議な力、それは、あの「星の欠片」から生まれたものだったのかもしれない。二人の絆の象徴。そう思えた。しかし、その記憶には、どうしても繋がらない、ある「別れ」の予感が含まれていた。天文台の屋上。潮風が、僕たちの髪を撫でる。二人で未来を誓い合ったはずなのに、なぜか、切ない影が差していた。杖は、あの記憶の「鍵」だったのだ。僕たちが、忘れてはならない、大切な「鍵」だったのだ。
失われた記憶の全体像を掴みたい。その一心で、僕は杖を強く握りしめた。すると、記憶は、まるで新品のフィルムのように、鮮明に蘇った。それは、僕が幼い頃、重い病に倒れ、死の淵をさまよっていた、あの夏の日の記憶だった。雫は、僕を救うために、自らの「記憶」という名のエネルギーの一部を、魔法のように、いや、科学のように、「等価交換」の理に従い、杖に込めたのだ。僕が「生きる意志」を取り戻せるように。僕の記憶を「バックアップ」して、僕に託してくれたのだ。しかし、その代償として、雫の記憶もまた、徐々に曖昧になり始めていた。「湊、あのね…」雫が、何かを言おうとして、言葉を詰まらせる。その表情は、僕の記憶の中の、あの夏の日の雫と同じように、どこか物憂げだった。
記憶は、蘇った。雫への想いも、確信に変わった。しかし、目の前で、雫の記憶が薄れていく。その現実に、僕は打ちのめされそうになった。天文台の屋上。最後の「潮」の香りを、二人で吸い込んだ。僕は、雫の手を強く握りしめた。「大丈夫だよ、雫」。僕の声は、震えていた。「僕が、君の失われた記憶を、これから、僕たちの新しい記憶で、全部埋めていくから」。杖は、もはや失われた記憶を呼び覚ます力は失われているようだった。でも、それはそれでいい。二人の「繋がりの証」として、静かに、僕たちの傍らに置かれた。空には、満天の星が輝いている。切なくも、希望に満ちた、新しい物語の始まりを告げるように。