消えた落第生

放課後、校舎には静寂が支配していた。窓の外、古びた池の水面が鈍く光を反射している。健太は一人、教室に取り残されていた。最近、クラスメイトの田中が「落第」の危機にあるという噂が、校内を静かに漂っていた。数日前から田中は姿を見せず、その席はぽっかりと空いたままだった。健太は、その空席を眺めながら、なぜか、自分だけがこの静寂に取り残されたような、奇妙な寂しさを感じていた。周囲の先生や生徒たちの心配そうな声も、まるで遠い岸辺からの呼び声のように、健太の耳には実感を伴って届かない。皆が田中を案じているのに、健太だけが、その現実から切り離されたような感覚に囚われていた。

ふと、田中の机に目をやった。そこには、落書きだらけのノートが置かれていた。ページをめくると、子供のような拙い字で、「あの池に、すべてがある」と書かれている。その文字は、まるで健太にだけ語りかけてくるかのような、不可思議な引力を持っていた。健太は、メモに導かれるように、一人、池へと向かった。学校の裏手にあるその池は、いつも淀んだ水を湛え、不気味な静けさを保っていた。先生たちは田中の行方を案じ、捜索を呼びかけていたが、健太にはその言葉に何の重みも感じられなかった。まるで、自分だけが、異なる時間軸、異なる現実の中にいるかのように、周囲の出来事が現実味を帯びてこなかった。

健太は、震える足で池の縁に立った。メモの言葉が頭の中で反響する。「すべてがある」。その言葉の真意を確かめるべく、健太は意を決して、冷たい水の中へと飛び込んだ。水は容赦なく健太の体を包み込み、冷たさが全身に染み渡る。水底を探るように手を伸ばすと、硬い感触があった。それは、古びたロッカーだった。鍵はかかっておらず、ゆっくりと開ける。中には、大量の教科書と、一枚の「合格通知」が入っていた。しかし、その通知に記された名前は、田中のものではなかった。写真の顔は、ぼやけていて、誰なのか判別できない。混乱が健太の心を支配する。このロッカーは何なのか? なぜここに? 疑問が渦巻く中、健太は水面を見上げた。そこに見えるはずの校舎は、見慣れた姿ではなかった。

水面から顔を出すと、健太は息を呑んだ。そこにあったのは、見知らぬ学校の校庭だった。周囲には、彼の見たこともない生徒たちが、奇妙な目で健太を見つめている。混乱の中、健太はふと理解した。自分が「落第」したのは、この知っている学校ではなく、別の「世界」からの「落第」だったのだ。あの池は、異世界への入り口だったのだ。そして、田中は、健太が「合格」した世界へ、先に旅立っていたのだ。健太が知っている「学校」や「友達」の記憶は、すべて「落第」してしまった、もう一つの異世界での出来事だったのかもしれない。自分が、この現実世界に「落第」してしまった存在だったのだという事実に、健太は呆然と立ち尽くすしかなかった。

健太は、自分が「落第」した、もう一つの世界での記憶にしがみつくように、見知らぬ校庭に立ち尽くしていた。田中が、なぜ自分を置いていったのか、その理由は健太には理解できなかった。ただ、自分がこの現実世界に「落第」してしまった、孤独な存在であることを、痛感するのみだった。

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