隣家の体育館と工芸品
埃っぽい古い工房の片隅で、佐々木健太は木屑にまみれていた。父から譲り受けたこの場所で、彼は最近、木工細工に手を出し始めたのだ。古びた廃材をノミで削り、磨き、形にしていく。それが、この街の片隅で生きる彼のささやかな抵抗だった。しかし、なかなか思うようにはいかない。目の前にあるのは、歪な形の木彫りの梟。まったく、この廃材ときたら、俺の才能と同じくらい、くすぶってるぜ……。そんな独り言が、工房の静寂に吸い込まれていく。
その時、隣家から「ドンッ!」と、重々しい物音が響いた。耳を澄ますと、どうやら庭の方から聞こえてくるらしい。塀の隙間から覗き見ると、隣に住む老婆が、大きなトレーニング器具のようなものを、えっちらおっちらと運んでいる最中だった。その顔には、汗が滲み、額の皺がさらに深くなっているように見えた。
「あら、健太さん。ちょっと手伝ってくれんかのう」
老婆の声に、健太は慌てて庭に駆けつけた。老婆は、錆びついた鉄アレイや、古びたトレーニングベンチを指差しながら、息を切らしていた。
「昔はこれで毎日、体育館で生徒たちと汗を流したものじゃ!」
「体育館……? 体操教室の先生をされていたんですか?」
健太は、老婆がそんな過去を持っていたことに、少々驚いた。老婆は、昔の栄光を語り始めた。彼女が町の体育館で体操教室の先生をしていた頃の話。生徒たちを指導し、時には自ら模範演技を披露したこと。その運動神経の良さは、町でも評判だったらしい。
「わしの若い頃は、それはもう、体が軽かったんじゃ。体育館で披露した技は、今でも皆の語り草じゃよ」
老婆は、目を細めて遠い昔を懐かしんでいる。健太は、その元気だった頃の老婆の姿を想像してみた。体育館で、逆上がりをしながらジャグリングでも披露していたのだろうか? いや、さすがにそれは想像しすぎか。健太は、内心で小さくツッコミを入れた。
数日後、健太は「体育館」という言葉から連想されるものを形にしてみた。それは、昔ながらの体育館シューズの形をした、精巧な木工品だった。老婆に見せると、彼女は目を輝かせた。
「おお!これは懐かしい!わしの教え子にも、こんな靴を履いてた子がいたわい。あれは確か、小学校の運動会だったかのう」
健太は、老婆の昔の教え子と、自分の作った工芸品が、こうして繋がったことに、静かな感動を覚えた。しかし、老婆は、さらに続けた。
「でもな、わしが体育館で一番得意だったのは、この『鉄棒逆上がり』じゃったんじゃ!」
そう言うと、老婆は突然、その場で片足立ちになり、腕を振り上げた。まるで、現役時代の体操選手のような、力強いポーズ。健太は、思わず顔を引きつらせた。
「いやいや、体育館シューズと逆上がり……どう考えても、物理的に無理があるだろ! もしかして、体操教室じゃなくて、体操選手だったのか? いや、それも違う気がする……」
健太の頭の中は、完全に混乱していた。「体育館」という言葉に、老婆が一体何を連想しているのか、さっぱり分からなくなっていた。
老婆は、健太の作った精巧な木工品を、じっと見つめていた。その視線は、まるで、遠い過去を見つめているかのようだ。
「この細工、まるで体育館の床の木目みたいじゃな。昔、体育館の床にワックスを塗るのが、わしの仕事の一つでもあったんじゃ。生徒たちが滑って怪我しないように、念入りにね。でも、正直、床をピカピカにするのが好きだっただけなんじゃがな」
老婆の言葉に、健太は目から鱗が落ちた。体操教室の先生としてだけでなく、体育館の管理人としても働いていたのか。そして、彼女が「体育館」という言葉で連想していたのは、体操の技でも、教え子でもなく、あの、ワックスで磨き上げられた、体育館の床だったのだ。
健太は、老婆のために、一枚板の工芸品を作ることにした。それは、体育館の床の木目を忠実に再現したものだった。滑らかな表面は、ワックスで磨かれた床のように、鈍い光を放っている。
老婆はその出来栄えに、静かに涙を流した。「これで、わしの体育館での思い出が、また一つ増えたわい」
世代を超えた勘違い。そして、それを静かに繋いだ、小さな工芸品。健太は、不思議な感動と、少しのユーモアを、胸に抱いた。
後日、健太は隣家の物置で、埃をかぶった鉄棒を見つけた。老婆が、昔、体育館で使っていたものだという。
「なるほど、体育館シューズと逆上がり……あれは、体操教室じゃなくて、体育館の『床掃除』の思い出だったのか……! いや、それも違う気がする……」
健太は、錆びついた鉄棒を眺めながら、一人、納得したような、していないような顔で呟いた。