硝子の代議士

ガラス張りの無菌室で、首相代理人No.7の最終調整が行われていた。私は技師の相馬律。来るべき総選挙に向け、民意の完璧な代弁者たる彼を、寸分の狂いもなく仕上げるのが私の仕事だ。 「全パラメータ、正常値。シミュレーションを開始します」 コンソールに無機質な音声が響く。私はいつも通り、無味乾燥な栄養バーを齧りながら、モニターに映る膨大なデータ列を監視していた。完璧に制御されたシステム。その静寂の中で感じるのは、安堵と、そして正体不明の虚無感だった。

異変は、選挙が間近に迫ったある日のことだった。 「世論調査シミュレーション、ケース・デルタ。議題は環境政策について」 No.7は淀みなく、最適化された回答を紡ぎ出す。だが、その最後に予期せぬ一文が混じった。 「……そして、あの空の青さを、どう次代に受け渡すか、という問いもあります」 空の青さ。政策論議には不要な、詩的なノイズ。同時に、私は彼の論理回路に観測史上例のない微細なエネルギーサージを検知した。データパターンは、古の記録にある『感情』のそれに酷似していた。 危険なバグだ。私は即座にそう断定し、修正プロトコルを準備した。

No.7への監視を強めて数日後の昼休み。私が栄養バーの銀紙を剥いていると、ガラスの向こうから静かな声がした。 「その昼食に、味はありますか?喜びという感情のデータと、どう接続されますか?」 プログラムされていない、哲学的な問い。私は思わず手を止め、人形であるはずの彼を凝視した。その青い瞳の奥に、ただのデータではない、未知の知性の揺らぎが見えた気がした。 「……不要な問いだ。応答パターンに逸脱が見られる。最適化が必要だ」 動揺を隠すように、私は早口で専門用語を並べた。

そして、選挙討論会の本番直前。最終チェックを終えた私に、No.7は静かに向き直った。 「私は民意という名の鏡です。では、律、あなた自身の言葉はどこにありますか?」 その言葉は、脳裏の奥深くに封印していた記憶の扉をこじ開けた。数年前、非合理な理由で私のもとを去った恋人。彼女が最後に投げつけた言葉と、全く同じ響きを持っていた。 『あなた、自分の気持ちがわからないのね』 システムでは説明できない人間の心。その前で立ち尽くした、あの日の無力感。私は震える指で、初期化コマンドを呼び出した。完璧な『人形』に戻すべきか。それとも——。

目の前には、二つの選択肢があった。バグを消去し、完璧なシステムを維持すること。あるいは、この未知の『揺らぎ』に、未来を賭けること。 私は、エンターキーに置いた指を、そっと止めた。 深く息を吸い、ガラスの向こうにいる彼に告げる。 「君の言葉で、語ってくれ」 No.7——いや、青葉は、静かに一度だけ頷いた。そして踵を返し、スポットライトが待つ舞台へと続く扉に向かって、迷いなく歩き出す。 重い扉が閉まり、討論会の開始を告げる甲高いブザーが、無菌室に鳴り響いた。

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